肥後24



内田今城萩原城霜野城霜野館

内田今城

和水町(旧菊水町)

内田氏の居城だった。南東部に内田氏一族の墓が残る。 『和水町文化財調査報告 第5集 内田今城跡』より
IV郭の西側から登ると北側には倒れた石塔などあり、切岸が確認できる。 尾根を南へ下ると割と古めの墓が放置された状態で残っている。 III郭との間には堀切がかつてはあったようだが、 舗装化されたのか?なんとなく痕跡は残っている。 III郭は農場となっている。 II郭は民家裏のようで未確認。I郭には南側から向かったが、倒竹が酷く断念した。



萩原城

和水町(旧菊水町)

長野氏(重郷・親次)または内田重貞の居城で、 天文年間、元亀3年(1572)、天正7年(1579)の落城の説がある。『熊本県の中世城跡』より
内田相良氏が在城も、天文年間に落城した。その後、天正年間には永野氏が居城したが、 天正7年隈部氏に攻められ落城した。『菊水町文化財調査報告 第15集 牧野城跡・小乙城跡』より
海彦山彦さんのページ(http://umihikoyamahiko.net)と CJNさんのページ(http://cjn-koga.life.coocan.jp/)を参考に南西からの尾根を強引に登る。 登りは良いが下りはかなり不安になりながらの下山だった。 主郭手前に削平されたような郭があったが、こちらは斜面が急で大手道ではないだろう。 主郭は周囲が切り立ってかつては見晴らしが良く、見張台に使われたか。 北へ少し下ると二郭でそこそこ広い。 土塁を越えるとかなり深い堀切で降りるのに苦労する。 三郭は狭く、すぐに次の堀切となる。 四郭を突き当たると、堀切があり、対岸には土塁がある。



霜野城

山鹿市(旧鹿央町)

内空閑氏の居城。隈部親永の5男の鎮房が鎮資の養子に入り城主で、鎮資の実子の鎮照が内村城城主であった。 天正7年(1579)に島津勢に攻められたがはね返している。 天正13年(1585)島津氏が肥後を制圧するようになると、隈本城の北郷忠虎と交渉して和平の道を選んだ。 『肥後古城物語』より
永正10年(1513)頃に築城され、天正15年(1587)に落城したと「国郡一統志」記載がある。 『熊本県の中世城跡』より
国見山へ向かう林道から分岐する舗装路に入り、すぐに道のない尾根伝いに下る。 すぐに深い堀切が2本残っている。 そこから登ると切岸や帯郭が綺麗に残っており、主郭手前の石塁は見事である。 主郭の南側に谷があり竪堀のようにも見える。 南東側が大手道かと思い、そちらへ下ると、横掘と土塁の残る郭など残っている。 東側へ尾根が向きを変えたところで谷をそのまま下ったが、大手道はさらに東側の尾根を下った方だったか、 谷を下ったか。 尚、麓に内空閑鎮房の墓がある。



霜野館

山鹿市(旧鹿央町)

内空閑氏の館跡か。北側の神社から小山になっており霜野城の前身はこちらが本城だったか。 麓で話した地主さんに依ればかつては畑と云う話だったが、今は、竹薮と化しており、段上になった山を登り、 北側には堀切らしい跡もある。郭内は切岸が残っているが、後世、開墾で作られたものか判断が付かない。





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