詳細は不明。高塚城の支城か。
果樹園となっており、西平貝塚ととも標識はあるのだが、肝心の遺構は良く分からなかった。
少弐頼尚が城主であったが、文中8年(1379)今川貞世により落城したという。(熊本県の中世城郭より)
ミカン園となって、遺構は残っていないが雰囲気は残っていた。
名和氏の家臣、佐々木吉広や吉重が在城したという。
相良氏の領土となった後も、佐々木高光が在城したという。(熊本県の中世城郭より)
国道3号の開通により消滅した。かつては本丸二ノ丸三ノ丸まであったようだが、一部果樹園となっている。
今はコンビニの横にひっそりと石碑がたたずむ。
名和顕興の家臣、本郷忠行が在城していたが、永禄・天正年間は相良長皎とその一族が城主であったという。
(熊本県の中世城郭より)
竜峰山登山口からやや荒れ気味の道を登っていくと、送電線の鉄塔があり、そこが城址だった。
付近はいつの時代に作られた物かわからないが切岸が多く残っている。
主郭を中心に帯郭が2つ廻る。一番外側の郭に上述の塔が立っている。
主郭の背後の尾根を断ち切るために、2つ大きな堀切が残っている。
熊本県の中世城郭では、縄張り図で前の城と後の城が逆のようである。
また明言院前にある地図では、関城、備中ヶ城と掲載されており、後者は越中が城であるし、
地図での場所も違う所を指しているという有様で、すぐ近くにあるはずの後の城の登り口が分からなかった。
鹿子木氏の出城という。
(熊本県の中世城郭より)
現在は畑となっているが、遺構はよく残っている。
舌端上の台地を堀切2本で断ち切っている。西側の方は竪掘として南北に伸びている。
東の方も縄張り図では竪掘があったようだが、小屋があって未確認である。
また腰郭も数段残っている。
このページの著作権は、作者に帰属します。 画像などの2次利用は御遠慮下さい。