竹崎佐兵衛尉季長の居城跡と伝わっていたが、遺構や遺物から南北朝から室町時代前期頃と推測され、
否定される結果となった。(現地説明板より)
主郭にある石碑は地震の影響か倒れていた。
西側の九州道方面に下ってみると、堀切のような跡や、後世の物か人工的な溝のような物もある。
また腰郭が数段残っている。
阿蘇大宮司惟時の館跡という。(熊本県の城跡より)
現在は正方形の館跡は一部農園?となっているものの平坦地で140m×140mというから広く感じる。
北東部には幅の広い土塁が残り、その周囲を廻る巨大空堀は近世城郭を彷彿とさせる。
小西時代に改修を受けたのだろう。
伊津野秀勝とその子の山城守が在城したという。(熊本県の城跡より)
陣ノ内館の谷を挟んで南側に位置する。
明確な遺構はないが、数段、郭の跡らしい物が残る。
阿蘇氏家臣富永土佐守が城主ともいう。(熊本県の城跡より)
現在は果樹園となって遺構は良く分からないが、「熊本県の城跡」に依れば、
古墳だったようでそこを利用した物だったと推測されている。
北西側に緑川へ下る油坂という、相良義陽の家臣東掃部助が甲佐城攻めから退却する際に、
油を流して甲佐勢の足を滑らせたという坂が残る。
阿蘇大宮司惟前、家臣の西惟安が居城したという。(熊本県の城跡より)
国指定なので期待していたが、地震で崩壊した後整備されずに入るようで、藪が生い茂り、
静かな山に帰ろうとしていた。
I郭は土壇もあり、中心的な郭だったのか、麓への尾根上にあるII郭へ行く道は地震でなくなってしまっていた。
土壇背後の坂にロープが張ってあり、下ると、畝状竪掘が数条残っていた。ここを東側へ廻り、強引に坂を上るとII郭だった。
さらにIII郭IV郭が堀切を挟んであるのだが、ロープが張ってあり、地震で崩れたようで行けなくなっていた。
I郭の南側にある郭への藪を掻き分け行こうとしたが、イノシシがいて慌てて引き返さざるを得なかった。
一方、I郭から西側の尾根上に堀切を挟みながら展開される、V郭からVIII郭がある。
残念ながら、堀切は藪になっていた。
一旦車道に出て、X郭背後の堀切は確認できたが、XI郭までの尾根上は特徴がなく、
時間の都合もあり、ここで引き返した。南尾根には遺構がたくさんあるようだし、少なくとも夏場に訪れるべきではなかった。
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