南北朝の頃、南朝方の戦略上の要地だった。
南北朝の後、阿蘇氏一族の御船惟安が城主となった。
その後甲斐宗運が御船房行を討って御船城主となった。
天正13年(1585)に宗運が亡くなると、甲斐親乗は島津氏の侵攻の前に城を捨てて退却し、
島津義弘がここを本営とした。(大系より)
町役場や恐竜博物館のすぐ西側の城山が城址である。
公園化されており、遺構ははっきりしない。
公園の入口には宗運門という門がある。
興国4年(1343)第58代阿蘇惟澄が築城した。(現地観光案内板より)
入佐集落の五老ヶ滝川の左岸に位置する。
小高い山の中に立派な石碑が建立されているが、遺構らしいものはない。
背後に林道があり堀切跡の可能性も否定は出来ないが、どうも堀切のようには感じなかった。
近くには恵良(阿蘇)惟澄の館跡があるが、民地となっており遺構はないようである。
阿蘇家の社領で弘治・永禄(1555〜69)の頃に家臣の鈎野民部少輔が在城したという。
辻姫という民部少輔の妻か娘が城主であったとも伝わる。(現地説明板より)
付近は住宅化しているものの、城址付近は古くからの家が残っており、
城址らしき小山も残っているようだが、民家の敷地内で入れなかった。
阿蘇氏家臣の村山丹後守が天正(1573〜90)の頃在城したという。
天正9年(1581)島津氏の先鋒として相良義陽が阿蘇氏の領内に侵攻した際に、
ここで開城を迫ったが、丹後守は留守で湛渕甚吉が守っており、
丹後守の許可なく開城できない旨を伝え、義陽も戦局に影響はないと判断して兵を進め、
響ヶ原で甲斐宗運に敗れ、討ち死にした。(現地説明板などより)
現在は果樹園となり、説明板自体も藪の中に溶け込んでいた。
西の方に堀切があるようだが、藪過ぎて確認も出来なかった。
築城されたのは、名和長年の子、
義高が八代郡を領した建武元年(1334)の直後に内河彦三郎義真が代官として下校しているので、
その時と推定されている。その後、名和・相良により大友氏や阿蘇氏も絡んだ剥奪・奪回が繰り返され、
天正15年(1587)に秀吉の九州征伐後に廃城になった推定されている。
住宅地の中に主郭を中心によく遺構は残っている。主郭の南側に郭があり、北側に空堀の跡が残る。
さらに外側は田園となっているが外堀だったようだ。
このページの著作権は、作者に帰属します。 画像などの2次利用は御遠慮下さい。