肥後16



御船城入佐(恵良)城曲野城豊田城豊福城

御船城

御船町

南北朝の頃、南朝方の戦略上の要地だった。 南北朝の後、阿蘇氏一族の御船惟安が城主となった。 その後甲斐宗運が御船房行を討って御船城主となった。 天正13年(1585)に宗運が亡くなると、甲斐親乗は島津氏の侵攻の前に城を捨てて退却し、 島津義弘がここを本営とした。(大系より)
町役場や恐竜博物館のすぐ西側の城山が城址である。 公園化されており、遺構ははっきりしない。 公園の入口には宗運門という門がある。


入佐(恵良)城

山都町(旧矢部町)

興国4年(1343)第58代阿蘇惟澄が築城した。(現地観光案内板より)
入佐集落の五老ヶ滝川の左岸に位置する。 小高い山の中に立派な石碑が建立されているが、遺構らしいものはない。 背後に林道があり堀切跡の可能性も否定は出来ないが、どうも堀切のようには感じなかった。 近くには恵良(阿蘇)惟澄の館跡があるが、民地となっており遺構はないようである。


曲野城


宇城市(旧松橋町)

阿蘇家の社領で弘治・永禄(1555〜69)の頃に家臣の鈎野民部少輔が在城したという。 辻姫という民部少輔の妻か娘が城主であったとも伝わる。(現地説明板より)
付近は住宅化しているものの、城址付近は古くからの家が残っており、 城址らしき小山も残っているようだが、民家の敷地内で入れなかった。


豊田城


宇城市(旧松橋町)

阿蘇氏家臣の村山丹後守が天正(1573〜90)の頃在城したという。 天正9年(1581)島津氏の先鋒として相良義陽が阿蘇氏の領内に侵攻した際に、 ここで開城を迫ったが、丹後守は留守で湛渕甚吉が守っており、 丹後守の許可なく開城できない旨を伝え、義陽も戦局に影響はないと判断して兵を進め、 響ヶ原で甲斐宗運に敗れ、討ち死にした。(現地説明板などより)
現在は果樹園となり、説明板自体も藪の中に溶け込んでいた。 西の方に堀切があるようだが、藪過ぎて確認も出来なかった。


豊福城


宇城市(旧松橋町)

築城されたのは、名和長年の子、 義高が八代郡を領した建武元年(1334)の直後に内河彦三郎義真が代官として下校しているので、 その時と推定されている。その後、名和・相良により大友氏や阿蘇氏も絡んだ剥奪・奪回が繰り返され、 天正15年(1587)に秀吉の九州征伐後に廃城になった推定されている。
住宅地の中に主郭を中心によく遺構は残っている。主郭の南側に郭があり、北側に空堀の跡が残る。 さらに外側は田園となっているが外堀だったようだ。



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