天文16年(1547)木山城主木山惟久(紹宅)の隠居所として築城された。
天正13年(1585)9月19日島津軍に攻められ、落城した。(現地説明版・大系より)
赤井川の南側にある、日枝神社を主郭とする平山城である。
北側を浮草堀と呼ばれる、水掘が今も残っている。
住宅地となっている西側を除き、周囲を堀で囲繞しており、
東側は今は田んぼとなっているがかつての面影が感じられる。
南側にも土橋と堀の跡が残る。
一方主郭は神社と畑へ転用されたためか遺構は見出しにくい。
嘉吉年間(1441〜44)に阿蘇惟忠に任命され、光永氏が築城したという。
天正13年(1585)惟助の時に、島津氏に落城された。(現地説明版より)
下陳の集落から城址を南へ回り込んだところに説明板が立っている。
しばらく林道を登ると、竹の手すりの階段があり、これを登ると、
二の天守と呼ばれる郭で、やや広い空間であるが、平坦面でなく、何段かに分かれている。
そこを東側から回り込むと、南北に走る二重の空堀がある。東側は竹林となっているが、
西側は広く、一の天守への道や、北側の腰郭へここを通って行ける。
一の天守が主郭で、栗畑となっており、巨石がいくつか転がっている。
ちなみに現地説明版の縄張り図は東方向が誤って北となっている。
隈部氏が隈府城に移るまで本拠地であった。菊池氏の三家老の一つであったが、
他の赤星・城氏を抜きんでいた。永禄2年(1559)5月、合勢川の戦いで、19代の隈部親永が赤星道秀を破り、
その後龍造寺氏の加勢を受け、20年後に隈府城主となった。
親永はその後、肥後国衆一揆の中心的な存在となり、停戦後柳川の立花氏お預けとなり、
半年後に秀吉の意向もあって討たれた。柳川に葬られたが、
平成になり、分骨され、城址のから少し登ったところに墓地が作られている。(大系・現地説明版より)
土塁に囲まれた、馬屋跡を突き抜けて登ると、堀切があり、土橋を過ぎると、石塁にぶち当たり、枡形となっており、
右側に迂回して、さらに石段を上って、平坦地に至る。
城内は、礎石の跡や、庭園の跡など良く残っている。
隈部神社が小山の上に鎮座し、その裏手には空堀が走っている。
そこを超えて、しばらく登ると上述の墓地に出る手前にやや薄くなった堀切が1条残っている。
菊池氏家臣御宇田氏の代々の居城。(大系より)
「古城考」では現在の水田にあるというが、軍人墓地が最も可能性が高いようである。
軍人墓地には「鳴滝城跡」の指標もある。
大系に掲載のように縄張り図の東側の堀切や土塁は残存しておらず、
北側に現在は取り付き道路と化している土塁や堀が残っている。
戦国時代、菊池氏の家臣内田時貞が城主であった。(大系より)
御霊古墳の北側にあり、水田地帯にこんもりとした森となっている。
北側に虎口があり、周囲を分厚い2〜3m程の土塁に囲まれ、中は平坦地となっている。
一方、土塁の外側は空堀が走り、北側から東側に掛けては、小川が流れている。
南側には藪化しているが堀切がある。
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