歴史的な詳細は不明。
google mapに表示されるので、東側の斜面から入っていくと、
堀切が2条あり(左1,2画像)、そこから城内に入られる。平虎口らしい跡が残る(左3画像)。
中は雑木林となっているが、削平されている。南の方へ下って行くとやや不整形となり、
崖状になり、下ったところに、堀切と土橋が残る(右端画像)。
深田の地頭、平河太郎盛高が築城したという。(現地説明版より)
かなり公園化されており、山頂近辺は遺構の雰囲気はない。
麓の運動公園から登ってきて、山頂へ向かう南斜面の途中に、堀切とそのまま落ちる竪堀が残る。
藤原秀高、その後、岡本氏、落合氏の居城だったという。(大系より)
ビハ公園キャンプ場へ行く道から分岐があり、やや荒れ気味の登山道ながら、迷うことなく城址には辿り着ける。
主郭は小高く作られており、南側から回り込める。
北西尾根には堀切が残る。また、北側にも帯郭があり、北への尾根も堀切で断っている。
主郭はやや荒れている。
相良長頼の第4子頼村が上村を本拠として上村氏が興った。
頼興は子、晴広が相良宗家の義滋の跡を継ぎ、晴広亡き後も幼少の義陽の後見役を務めた。
上村氏は次男の頼孝が継いだが、頼興亡き後、弟の頼堅と長蔵と義陽に背いたが、
長蔵の籠る岡本城は落城、頼孝は上村城から落ち、水俣城で自害した。
その後、豊後にいた犬童伝心を還俗させ、美作守頼安と名乗らせ、地頭として治めさせた。(大系より)
谷水薬師の東側には上村氏の墓地が残る。
薬師から城址(高城)へ道が伸びる。
高城は自然地形に近い小山が2つあり、削平されている。
北側の尾根は2条堀切で断っており、
一方、南側は規模の大きな2重堀切で尾根を断っている。
城址はもみじが植えられており、秋にも訪れてみたいものである。
鎌倉時代以来、阿蘇氏一族の木山氏の領地であった。
阿蘇氏の家臣惟興が永享13年(1441)頃に入ったと推測されている。その後木山氏を名乗ったという。
天文16年(1547)に惟貞が赤井城に移ったいわれ、その後家老の竹崎筑後が城代になったという。
天正10年(1582)惟久が子の信連に城主を譲り、上洛した。翌年島津軍により落城した。(大系と現地説明版より)
現在城址公園となっており、地震の被害で工事中であった。
西側は住宅化され、東側は今も切り立っており、小川が流れている。
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