相良頼景の居城という。(大系より)
現在は内城と呼ばれる切り立った台地上の畑となった平坦地で、
竹林と化したエリアには土塁らしい盛土(左端画像)や、堀のような跡もある(右1,2画像)が、
当時の物であるかは定かでない。
上相良氏の始祖、相良頼景の居館跡と推定される。
ただ、球磨川に面した南側だけ土塁がなかったことから、館跡でなく、船着き場である可能性も否定できないという。(大系より)
木碑はあるものの、田んぼとなったのか、河川工事などで消滅したのか、土塁らしい跡も残っていないように見えた。
すぐ西100mの所に相良氏の菩提寺の蓮花寺跡があり、五輪塔や板碑が多数残っている。
建久年間(1190〜99)地頭の1人、久米三郎が城主と伝わる。
南北朝の頃には、多良木相良氏の居城となっていたようである。
永禄2年の獺野原の戦いで湯前・丸目子が敗れ、湯前兄弟は討死、湯前城、久米城は落城した。(大系より)
熊野座神社の背後の山が城址であるが、地元民は全く知らないようだった。
神社から整備された道を登ると主郭と思しき平坦な山頂に至り(上段最左画像)、
東側に2条堀切が残っているものの(上段左2画像)、
かなり後世に手が入っており、遺構は見出しにくい。
熊野座神社の南西側尾根に3重の堀切があり、良く残っている(中段画像)。
さらに3重掘の最上部を南側に廻り込むと、土塁が続き、
2重の空堀が残っている(下段画像)。
東直政の居城。(大系より)
獺野原の戦いの前に、丸目氏兵庫が形成を立て直すために湯前城に入った。
岩崎加賀の守る多良木城を攻めようとしたが、湯前城にいた岩崎加賀の甥が、
「せん」という女を使って多良木城に知らせ、落城を免れたという。(古城物語より)
東直政が獺野原の戦いで敗れた後に、東能登が翌年城主となった。
文禄3年(1595)相良長毎が朝鮮に出兵中に犬童氏を滅ぼそうと謀ったとして死を命ぜられた竹下監物が籠城したが、敗れた。
慶長9年(1604)に普門寺を湯前城に移した。(現地説明板より)
市房神社の里宮神社が城址で、南面に都川が流れ、
神社の東側に空堀・土塁らしい跡と切岸が見られる。
湯山宗豊が城主だった。(大系より)
湯山温泉郷の小高い山が城址である。
南側斜面に堀切らしい跡が残っている。
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