岩崎氏が城主という。(大系より)
菅原神社一帯ということであるが、遺構らしいものはなく、
繁根木川よりもやや高い位置にある。
神社の北側にやや離れた所に古そうな板碑状の平たい石が立っていたが、
それが大系に載っている、城主の墓と伝わるものだったようだ。
城主不明。
稲佐の廃寺跡(平安時代)で、伽藍の跡、礎石など残る。
寺院跡から堀と切落しが見つかったという。
現在は熊野座神社が立っている。
東側が藪っており、遺構があったかもしれないが、
入れそうなレベルではなかった。
宇都宮氏の居城で、建武5年(延元3、1338)に少弐頼尚が発した軍勢催促状により、
肥後の国府を攻撃したが菊池武重らが迎撃し、宇都宮大和大郎城に引きこもったことが、
詫摩文書にある。
貞和6年(1350)詫摩宗直、足利宗冬、川尻幸俊等の軍により、落城し、
探題一色範氏により、宇都宮公景が木葉・岩野の地頭職に任命されている。
その後、天正17年(1589)小森田将監が、城主で、加藤清正に滅ぼされたという。
小森田氏は菊池氏の有力家臣で、菊池氏滅亡後も有力国衆として存続したと推測されている。
(大系・現地説明文より)
現在、玉東町役場のすぐ北側、有栖川宮督戦阯の石碑が立っており、
かつては堀切もあったようであるが、遺構保存され、今は見ることができない。
明応年間(1492〜1501)に鹿子木寂心(親員)が築城したという。
永正17年(1520)菊池重治(後に義宗、義武)を肥後守護に迎い入れようとした、寂心と本郷長賢に対して、
反重治派の菊池基興、南親興が攻め寄せた合戦が行われ、
天文3年(1534)、同19年(1550)菊池義武が大友氏に対抗して挙兵した拠点となった。
天文19年の戦いの後、鹿子木氏が去ると、城親冬が入り、子の親賢、冬基と続いた。
天正15年(1587)佐々成政が居城とするも、圧政に反抗した肥後の小領主に攻め寄せられた。
成政失脚後、天正16年(1588)6月加藤清正の居城になった。
慶長年間(1596〜1615)に熊本城の二の丸に組み入れられた。(肥後古城物語・大系より)
現在は、第一高校の校地となり、西側に残っていた堀も、埋め立てられて、古城堀端公園となって遺構はない。
上(多良木)相良氏の本拠であった。
南北朝の頃は、経頼は南朝方で、北朝方の下相良氏総領の定頼と戦った。
文安5年(1448)に頼観・頼仙兄弟は不意に人吉城を攻め、幼少の堯頼を追い出しには成功したが、
山田城主永留長続の反撃に遭い、上多良木氏は滅亡した。
その後は、長続の四男頼泰が城主になるも、宗家の為続に一旦城を取り上げられ、
最終的に陰謀の発覚で城は宗家に戻った。頼泰の孫の治頼が奪還を謀ったが失敗している。(大系より)
小椎川と宮ヶ野川(栖山川?)の合流点の台地上にある。
南西部に木碑があり、ここから登る。
やや荒れた感はあるが、しばらく進むと、壁面を石塁で固めた、二の丸に出る。
その北側が本丸だそうだが、牛舎の廃墟や農園の跡で、
切岸なのか、堀切なのか、いまいちはっきりしなかった。
多良木駅に向かう途中に、里の城という字もあるが、遺構らしい物も残っていない。
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