鎌倉時代に相良氏の一族がここを領し、板井氏を名乗り、
菊池氏配下となった。その後、関部氏が城主であった。
天授5年(1379)今川了俊・仲秋兄弟が菊池氏攻略のためにここに2年陣を張った。(現地説明板より)
北を流れる菊池川と南を流れる迫田川に挟まれた台地の北端に位置する。
社殿のある屋形跡と古墳?を主郭とする丸城跡から成る。
丸城と社殿の間には、豊前堀と呼ばれる堀が残っている。
菊池氏の氏族林原与三隆益一族が城主であった。
天授5年(1379)今川了俊の侵入で起こった、板井原の戦いの際に落城した。
菊池氏滅亡後は、怒留湯氏が城主となった。(現地説明板より)
馬渡城より1段高い河岸段丘?の上に位置し、現在小高い峠のような所に石碑がある。
荒れた竹林と化し、遺構らしい物はないが、南東側にはなんとなく雰囲気が残っている。
建久4年(1193)紀国隆は大野別符の地頭に任命され、
3男秀隆が惣領職を継ぎ、大野氏を称した。
惣領、大野小次郎くにたかは蒙古襲来の際に奮戦し、
蒙古襲来絵詞に名前を残した。
南朝方に属し、
荒尾野原荘の地頭で北朝方に属した、小代氏と対立し、
天文19年(1550)8月大友義鎮方の小代氏に落城され、
また天正11年(1581)3月にも龍造寺隆信に属した、小代左近将監親忠により、
城主大野弾正少弼紀親祐は落城、滅亡した。
本善坊の巨岩が多数ある山頂付近を主郭とし、右回りコースを下った所に、
堀切らしい跡が残る(右端画像)。山として雰囲気はあるが、それ以外遺構は見当たらなかった。
日嶽城の支城だったようで、古城という名前からすると、始めはこちらが本城で、 時代が下るにつれ、標高を上げる必要に迫られ、本城を移したのだろうか。 現在は果樹園となっており、遺構はよく分らなかった。
建久4年(1193)紀国隆は大野別符の地頭に任命され、
3男秀隆が惣領職を継ぎ、大野氏を称した。後に、一族は、日嶽城に本城を移した。
国隆の次男築地次郎国親(国秀?)の曾孫の高路諸太郎幸経は高道方面を分領した。
南北朝では、南朝方に属し、幾度となく、今川軍の攻撃を受け、落城し、
天正10年(1582)龍造寺氏に属した、小代氏の攻撃を受け、主水貞胤が守るも落城、
一族退散した。(現地説明板より)
北東部の高所となっている、菅原神社が主郭であったようである。
北側には水掘が残る。
また西側には、住宅の間に、堀の跡と、土塁らしい跡が残っている(最右画像)。
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