波多野氏の一族河村秀高により平安時代末期に築城されたという。
鎌倉時代初期に一時は領地を没収されたが、
義秀が流鏑馬で頼朝に認められ、復帰を果した。
室町時代に入ると、秀国・秀経は南朝方に属し、
正平7年(1352)新田義興、脇屋義治と共に籠り、
北朝方の畠山国清と2年対峙した。が、南原の戦いで敗れ、
秀国・秀経は討死した。その後、畠山国清、上杉憲実と移り、
大森氏の持城となったと推測される。
後北条氏の相模侵入で北条氏の居城となり、
武田氏の侵攻に備える上で重要度が高かった。
天正18年(1590)秀吉の北条征伐の際に落城し、廃城になったと推測される。
現在は後北条氏時代の築城技術がそのまま残っており、
整備中である。全体的に北東側にかけて防御機能が高くなっている。
本郭とその北側にある、茶臼郭との間には、
堀切が2本あり、畝堀となっている(左1、2画像)。
本郭東側には蔵郭、近藤郭、大庭郭があり、郭間には大きな堀切がある(中央画像)。
特に蔵郭と近藤郭の間の物は幅約30m、深さ15mと大規模であるが、
工事中であった(右2画像)。
本郭から一旦南に行くと馬出郭で、
さらに西側に公園化されていない西郭がある。
西郭から北西方向の尾根上にも郭は伸び、
堀切を挟んで北郭があり(右端画像)、
さらに大久保平へ向かって堀切2本存在する。
波多野氏一族松田氏の居城。松田郷を鎌倉時代から守り続け、
北条早雲が相模に侵入すると大森氏と対立していたので、
北条氏に従うことになった。
北条氏の三家老の一翼を担う程であった。
本格的な城郭として築城したのは、松田新次郎康隆とされる。
現在は、一面一帯は、南面した見晴らしいの良い土地であるせいか、
蜜柑畑に格好の地となっていて、
はっきり遺構として残っているのは堀切1本である(左画像)。
岡崎義実の嫡男、佐奈田余一(輿一)の居館、大森藤頼の城と伝わる。
が、室町以降は定かでない。
現在、天徳寺のある位置が城址で、
小高い丘の上にある。境内の北側に土塁や櫓台があるということだったが、
墓地となっていて確認できなかった。
天徳寺の南東にある真田神社から馬場のような太い直線道路が残っているが、
当時からの物だろうか。
おそらく遺構ではないだろうが、天徳寺の南側に空堀のような空き地があった。
建久年間(1190〜1199)に永井某により築城されたという。
片倉城の出城だったと伝わる。
宝泉寺の裏手の小山が城址で、櫓台のある本郭を中心に東側に曲輪が2つ、
それぞれ堀切で断っている。
また西側にも曲輪は伸び、やはり同様に空堀で断ってある。
居館が宝泉寺のある場所に作られ、その後、城が築かれたと推定されている。
築城時期は明かではないが、諏訪三河守により築城されたと推測されている。
諏訪氏は後北条氏に属していたようである。
現在、本丸のあったエリアは殿山と呼ばれる丘陵上の住宅地となっていて、
石碑があるだけである。南斜面にある殿山公園に、
土塁、空堀、曲輪が残っている。堀切は斜面に沿った竪堀のような形になっており、
当時は3m程の深さであったという。
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