永享の乱(1438)で討伐された鎌倉公方足利持氏方であった上杉憲直が、
城主であった。築城したのは父の憲清と伝わる。
憲直は幕府軍に攻められ、金沢称名寺で自害している。
その後、後北条氏の頃に山田右京進が城主であったと伝わる。
現在は舊城寺(旧城寺)となっており比較的遺構もよく残っている。
山門から入った所には、喰い違い虎口があったらしく、
今もだいぶ削られてはいるが痕跡は窺える。
墓地のある所が本丸跡のようで舊城寺の本殿よりも数m高い位置にあり、
南側には櫓台のような区域があり、現在、山田右京進の石碑が立っている。
西側にかすかに空堀の跡があるが薮のためにほとんど分らない。
その切岸の下は現在歩道となっているが空堀であったらしい。
室町時代初期に築城されたと推定される。さらに後北条氏の支城になった後に、
改修され、現状となったと推定されている。
平成20年6月に城址公園として開園された。
4つの曲輪からなり、東の曲輪が本丸であったようで一番高く、
中央の曲輪と土橋で繋っている。
詳らかな歴史は分らない。
旧安田邸の裏山で、貯水池と安田善次郎による明治天皇の石碑が立っている(左画像)。
その北側に薮化したエリアがあり、堀切らしい跡が残っている(右画像)。
石碑の周りにも腰曲輪らしい平坦地もあるが、何時の時代の物かはっきりしない。
文明9年(1477)長尾景春の反乱の時に景春の被官越後五郎四郎が籠城し、
太田道灌に落城されたといわれる。が、正確な位置は分っていない。
旧三井邸、城山公園なっており、
公園管理事務所の裏手の辺りに堀切らしい跡がある(画像)。
河村氏が築城したとも、
落城した河村城
から落ちのびた新田義興が築城したとも伝わり定かではない。
戦国時代に武田氏の押さえとして北条氏の城であった。
現在、バンガロー施設となっており、その北側には、
かつて第六天が祀られたあった物見台のような小山が残る(左画像)。
その麓には当時の物か分らないが石塁も残っている(右画像)。
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