長尾氏発祥の城である。長尾為景、定景兄弟は頼朝討伐軍に属したが、
後許され、御家人となった。が、その後、三浦氏と運命を共にし、
落城した。
現在、屋敷跡が神社になり、台地への道の途中に砦跡の説明板があるものの、
遺構らしい物は見当たらなかった。
かつては北条氏時代の出城としての大堀切や塚があったようだが、見落としたか。
永正9年(1512)北条早雲が三浦半島を本拠とする三浦氏対策に築城。
新井城落城後は、
東相模の拠点となり機能した。
永禄4年(1561)、12年(1569)と上杉謙信、武田信玄に小田原城を攻められた際にも、
落城することなく持ち堪えた。
城主には、北条綱成、氏繁、氏勝と続き、
天正18年(1590)秀吉の北条征伐の際に、開城降伏した。
その後、関東に入った家康の家臣本多正信が一時期城主となった。
元禄16年(1703)松平正久の転封で廃藩となった。
本丸などは清泉女学院の敷地となってしまっているが、
周辺には北条時代の遺構らしい物が残っている。
諏訪檀には空堀(中央画像)と土橋の跡、
さらに七曲(左端画像)は今も急峻な坂のままである。
元々諏訪檀にあったという諏訪神社が移築された現諏訪神社の裏手に、
城主北条3代の墓があるが、その辺りも砦があったようで、
曲輪の跡など明瞭に残っている(右端画像)。
平良文(村岡五郎)の屋敷等があった所とされる。
その後、玉縄城の砦の1つとして改修されたようである。
現在は、長福寺の裏手にある物見台がかつての面影を残しているように思われる。
村岡城址公園には石碑があるのみである。
玉縄城の砦の1つ。玉縄城築城のすぐ後に築城されたと推測されている。
現在、二伝寺裏手に、平良文3代の墓があり、遺構は明瞭ではないが、
丘陵を利用した砦だったようである。
平安時代末期から渋谷氏の本拠地であった。
渋谷氏の最盛期、渋谷重国の頃築城されたと推測されている。
鎌倉時代には和田合戦で和田方に属いたために地頭職を奪われ、
実重が宝治合戦で功をあげ、薩摩の地頭職を得て下向した。
現在は城址公園となり、かなり公園化されてしまっている。
見所は、北西部分の土塁と空堀。
後北条氏の手が入っているだろうか。
南側には櫓台もあり、現在は渋谷氏の子孫、
東郷平八郎による石碑が立っている。
後北条氏が武田氏の侵攻に備えて築城したと推測される。
永禄12年(1569)武田信玄に、天正9年(1581)にも武田勝頼に落城された。
その後、天正18年(1590)の秀吉の小田原征伐の際には、
遠山左衛門尉景政が城番で、
家康配下の甲斐勢に攻められ城兵31人が討死、落城した。
南に鮎沢川、東に河内川、北に塩沢川に囲まれた場所に位置し、
甲斐と西相模を結ぶ要衝に当たる。
現在は一面茶畑となっており、櫓台が残っている。
櫓台には石積みが残っており、当時の物かどうかは定かではない(右端画像)。
畝堀など残っているようだが、薮化しており、
それを確認するのは容易ではないよう。
北側の斜面を歩いてみたが、曲輪らしい痕跡は感じなかった。
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