国土地理院2万5千地図には城の表記があるが、遺構はなにもない。 天正18年(1590)の北条征伐の際に秀吉軍が通過している。 すぐ北にある浅間山(右画像)もかつては前鷹の巣と呼ばれていたらしく、 現在の鷹巣山(左画像)よりもまだ城址らしい雰囲気がないでもないが、 それでも肯定できる材料に乏しい。
義父三浦時高を滅ぼした三浦道寸(義同)が、それまでの城を改修し、
本城とした。
が、17年間の攻防の後に、永正9年(1512)伊勢宗瑞(北条早雲)に落城され、
道寸は三浦の住吉城へ逃れた。その後は分っていない。
現在、無量寺の西側に遺構がよく残っている。
墓地の後ろ側に回り込んで出た場所が北郭で北西側にも郭が続き、
幅の広い空堀が、現在畑となっていることが分る。(左端画像)
北郭からは、空堀を挟んで(左2画像)、中郭(左3画像)、
さらに、それよりも深い空堀を挟んで、
南郭とよく残っているが、土塁などの遺構は見られない。
北西側は、尾根伝いに岡崎四郎義実の墓まで行けて、
この辺りまで広義での城域だったようにも思える。
岡崎南部方形囲郭群は、三浦道寸との縁から、 小田原城から追われた大森氏頼の保護された場所と比定されている。 北西部にある紫雲寺には大森氏頼居館跡の標識や石碑が残る。 方形囲郭はコの字を北に向けた形をしていて、 自然地形を利用したものと想像される。 岡崎神社には遺構らしい物もなく、 付近も住宅化で簡単には遺構も見当たらなかった。
城所氏の居城。城址は新幹線の採土工事の際に完全消滅したとのこと。 浄心寺の裏山には墓地しかなく、遺構は何もない。
慶長元年(1596)徳川家康の宿舎として築造され、
寛永16年(1640)修復されたが、明暦3年(1657)に廃止となった。
それ以前にも館があったという説も残る。
現在は小学校の敷地となり、何も残っていない。
横山党の矢部義兼の居館跡と云われる。
境川の南側に位置し、土塁で囲まれた居館であったようだが、
現在わずかに土塁が残っているだけである。
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