室町時代、金子氏の居城であった。
長尾景仲・景春の家臣であり、文明9年(1477)長尾景春の乱の際に景春と共に挙兵した。
同時に挙兵した、溝呂木城と磯部城は、引き返して来た、太田道灌にすぐに落城されたが、
小沢城は堅固で約1ヶ月半持ちこたえた。が道灌が豊島勢を敗り、降伏した。
その後、後北条時代にも使用されていたと推測されている。
(大系・神奈川の城より)
砦跡と伝わる第六天社が北方に突き出た小山にあり、城坂を登り詰めると、
そのまま空堀跡にあり、その北側に畑となっている城の内に達っする。
永禄年間(1558〜70)頃に半原・田代・角田を所領とした、
内藤下野守秀勝により築城された。
内藤氏は、秀勝、秀行、定行と3代に渡り、北条氏に従った。
永禄12年(1569)武田信玄の小田原攻めの際に落城したと伝わる。
(現地案内板・大系より)
現在は中津川の馬渡橋を渡った、丘陵の上にあり、
国道412号線の建設により遺構は、かなり消滅した。
稲荷社(画像)が土塁?の上にあるが、その他の遺構はよく分らなかった。
内藤下野守秀勝とその子三郎兵衛秀行の2代が在城した。
永禄12年(1569)武田信玄の小田原攻めの際に落城したと伝わる。
(現地案内板より)
現在、愛川中学に案内板があり、背後に狼煙台の山が控える麓にある。
居館があったようで、現在は、中学校と民家、畑(画像)となっているが、
畑の方はなんとなく雰囲気が残っている。
大森寄栖庵の持城で、
北条時代には松田氏に守衛を任じ、須藤源二郎、村野安芸守、
小澤孫七郎を城番として警備させた。
武田氏への国境防御のために、「はまいは掟」および「掟」
を定め、浜居場から足柄まで厳重な監視下にあった。
(大系・現地案内板より)
足柄峠から内山へ抜ける尾根道の途中にあたる。
城址は植林地帯となって遺構ははっきりしない。
東側に本曲輪があり、空堀らしい跡がうっすらとある(左画像)。
また西側にもうっすらと堀切が残る(右画像)。
2段からなる切岸(左1画像)や、堀切(左2画像)、食い違い虎口(右1、2画像)が残る。 丹念に探せば、まだありそうなくらい臭うエリアである。
土塁で囲まれた削平地となっている。 北へ真っすぐ行けば、阿弥陀尾砦、北東へ向かえば浜居場城に至る。
古楢尾砦の南側、足柄城のすぐ北側にある。遺構はよく分らなかった。
足柄城から金時山への尾根沿いにある、丸鉢と推定されている。 定山から一の金王、二の金王、三の金王を登り詰めた尾根にある。 現在は案内板しかないようで遺構はよく分らなかった。
古来から坂東へ入る難所として知られており、足柄の関が設けられていた。
本郭的な城郭が築かれたのは後北条氏の頃と推測されている。
天文6年(1537)武田氏と今川氏との間で同盟が結ばれ、
緊張が高まり、国境警備のために築城されたと考えられている。
武田氏とは深沢城
を巡る戦いが繰り広げられ、重要度を増した。
武田氏滅亡後も、天正15年(1587)豊臣政権に対抗するためか、普請を命じている。
天正18年(1590)秀吉の北条征伐が始まると、
3月中旬に北条氏忠が入ったが、4月1日に山中城が落城されると、
その後守備隊は小田原に撤退したのか、
戦闘らしい戦闘もなく井伊直政隊に簡単に落城されてしまった。
(大系・静岡の城より)
通り尾砦のすぐ南側に位置し、明神の祀られる曲輪となる。
堀切らしい跡があり、代官屋敷と呼ばれる、平坦地に達っする。
ここから登ると曲輪があり、
堀切跡なのか現在道路を橋で渡ると、本曲輪となる(左1画像)。
本曲輪には石碑があり、富士山の眺望は素晴らしい。
池の跡があり、西へ、堀切を挟んで二の曲輪(左2画像)、
さらに堀切を挟んで三の曲輪となる(左3画像)。
さらに北西の方へ四の曲輪があるが、やや薮っていた。
その西に五の曲輪があったようだが見逃してしまった。
本曲輪から金時山への道沿いは、
道路で掘削されてしまっているが、空堀の跡が残っている(右1画像)。
また、『静岡の山城』によれば、
西の道路が伸びる竹之下方面にもかなり遺構が残っているようである。
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