相模・武蔵(神奈川)12



和田城三崎城梶原景時城懐島権守景義館山中城(山中陣屋)

和田城


三浦市【最寄り駅】京急三崎口駅

和田小太郎義盛の居館。16歳の秋に父の死をさかいに、 杉本城からここに移った。 義盛は鎌倉幕府の成立時、 侍所別当になったが、建保元年(1213)北条義時と対立し反乱を起し、 鎌倉で討ち死にした。
遺構は何もないが、館を囲むように、 「木戸脇」「唐池」「出口」「赤羽根」「矢作」という地名が残っている。 (現地案内板より)

石碑

三崎城


三浦市【最寄り駅】京急三崎口駅

戦国時代に三浦氏による築城と推定される。 永正15年(1518)7月11日新井城落城の際に、 ここも落城し、その際に囲みを破った城兵は城ヶ島に逃れ、抵抗を続けたという。 天正18年北条氏の滅亡とともに廃城となった。(現地案内板より)
現在、三浦市役所の周辺の北条山を中心としたエリアに、 土塁が空堀が一部残っている。

三崎中学土塁 本丸土塁 青少年会館土塁 慰霊塔空堀

梶原景時城(一宮館)


寒川町【最寄り駅】JR相模線寒川駅

頼朝の信任篤く、侍所所司であった、梶原景時が一宮を領しており、この地に館を構えたとされている。(現地案内板より) 大系によれば、その後も何者かの館があったと推定されているようである。
現在、天満宮に石碑が立つ。土塁や堀の跡があった(ある)らしいが、付近は住宅地化されており、 遺構は確認できなかった。

天満宮

懐島権守景義館


茅ヶ崎市

大庭平太景義は頼朝に従い、その功績により重臣となったが、 その後、鎌倉を追放され、懐島に隠棲し、懐島景義と云われるようになった。 大庭氏はその後、子の小次郎景兼の時に和田合戦で討ち死にし、 二階堂氏、大仏氏、足利直義と経て、後北条氏の頃に近藤孫太郎が領しており、 当地を本拠としたと考えられている。(大系より)
現在は、天明社となっており、土塁跡という石碑があるが、土塁がどこにあるかよく分らない。 南西側に堀の跡のような箇所があるとのことだが、付近は住宅地化されており、 よく分らなかった。


山中城(山中陣屋)


厚木市【最寄り駅】小田急本厚木駅

小田原藩大久保氏5代目加賀守忠朝の次男教寛が藩祖で、 当時は駿河国松永村に居住した。 天明4年(1784)、5代教翅の時に陣屋を荻野に移した。 慶応3年(1867)12月15日に勤皇派の浪士隊の襲撃に遭い焼失した。 明治維新後も荻野山中県庁として利用されたが、明治4年に廃城となった。(大系より)
現在、山中陣屋跡史跡公園となっているが、遺構はない。立派な石碑(左端画像)と陣屋稲荷(右端画像)がある。 川の南側のやや小高い位置にある。

石碑 遠景 陣屋稲荷

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