和田小太郎義盛の居館。16歳の秋に父の死をさかいに、
杉本城からここに移った。
義盛は鎌倉幕府の成立時、
侍所別当になったが、建保元年(1213)北条義時と対立し反乱を起し、
鎌倉で討ち死にした。
遺構は何もないが、館を囲むように、
「木戸脇」「唐池」「出口」「赤羽根」「矢作」という地名が残っている。
(現地案内板より)
戦国時代に三浦氏による築城と推定される。
永正15年(1518)7月11日新井城落城の際に、
ここも落城し、その際に囲みを破った城兵は城ヶ島に逃れ、抵抗を続けたという。
天正18年北条氏の滅亡とともに廃城となった。(現地案内板より)
現在、三浦市役所の周辺の北条山を中心としたエリアに、
土塁が空堀が一部残っている。
頼朝の信任篤く、侍所所司であった、梶原景時が一宮を領しており、この地に館を構えたとされている。(現地案内板より)
大系によれば、その後も何者かの館があったと推定されているようである。
現在、天満宮に石碑が立つ。土塁や堀の跡があった(ある)らしいが、付近は住宅地化されており、
遺構は確認できなかった。
大庭平太景義は頼朝に従い、その功績により重臣となったが、
その後、鎌倉を追放され、懐島に隠棲し、懐島景義と云われるようになった。
大庭氏はその後、子の小次郎景兼の時に和田合戦で討ち死にし、
二階堂氏、大仏氏、足利直義と経て、後北条氏の頃に近藤孫太郎が領しており、
当地を本拠としたと考えられている。(大系より)
現在は、天明社となっており、土塁跡という石碑があるが、土塁がどこにあるかよく分らない。
南西側に堀の跡のような箇所があるとのことだが、付近は住宅地化されており、
よく分らなかった。
小田原藩大久保氏5代目加賀守忠朝の次男教寛が藩祖で、
当時は駿河国松永村に居住した。
天明4年(1784)、5代教翅の時に陣屋を荻野に移した。
慶応3年(1867)12月15日に勤皇派の浪士隊の襲撃に遭い焼失した。
明治維新後も荻野山中県庁として利用されたが、明治4年に廃城となった。(大系より)
現在、山中陣屋跡史跡公園となっているが、遺構はない。立派な石碑(左端画像)と陣屋稲荷(右端画像)がある。
川の南側のやや小高い位置にある。
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