天正5年(1577)秀吉が毛利軍との戦いに備え、姫路に入った。
翌同6年2月に三木城の別所氏が毛利方に寝返り、3月6日に書写山に乱入し、十地坊を本営とした。
2万7千石の寺領も没収され、500石しか残らなかった。
また、本尊如意輪観音像や薬師如来像、阿弥陀三尊像など多くの仏像や寺宝が持ち去られた。
三木城落城とともに在陣は終わった。(寺内説明板より)
山頂の白山から少し奥へ行った、十地坊跡に切岸と、土塁らしい跡が残る。
目の前に置塩城が見える。
天正の乱として厄災として扱われているが、黒田家の家紋が貯水池の壁面に張ってあり、
勘兵衛のロケでも使われたというのが現実的というか、したたかというか。
15世紀初頭に赤松氏が築城した守護の行政上の拠点。
置塩城に拠点が移ると廃城になったと推定されている。(現地説明板より)
住宅化されており、一部南西部の土塁が残っている。
長禄2年(1458)富田(戸田)右京が大鷹山城から移った。その時に八幡山城から大鷹山城に名前が変わったと推測される。
浦上宗景により滅ぼされた。
その後、有年山城として赤松信濃守範資の三男本郷掃部介直頼が城主であったことが記録に残る。
(大系より)
主郭には音声ガイドも設置され、旗幟も多く立ち、木々も伐採されるなど整備されている。
東側から登ると、古墳があり、少し行くと土橋状の道となり、竪掘らしき箇所を登ると土橋があり、
南側には横掘が走る。そこを登った所が郭で北側に井戸跡がある。
南西側に数段登ると主郭に至る。主郭から北西側に郭は展開されており、
土壙が4つもあり、特に主郭側のものは巨大で、何に使われたのであろうか。
赤松氏の一族太田弾正の居城だった。元亀2年(1571)小河丹後秀春が龍野刑部と共に攻めたが、
三宅与三左衛門が背後から救援に入り、秀春は敗北し自害した。(大系より)
ふれあいの森は荒れ気味であるが、遺構はそれなりに残っている。
尾根から展望台のある主郭の尾根上に、堀切が数本や郭の跡が残る。
鎌倉時代に瓜生左衛門尉が築城したとも、赤松則村の三男則祐が築城したともいうが定かでない。
建武三年(1336)足利尊氏が九州へ落ち延びた後、新田義貞が徳力三河守秀隆の軍勢で赤松則祐が籠る感状山城を
攻めたが果たせず、その後新田義貞が大軍でせめて来た際には白旗城に籠り守りきった。
足利尊氏が天下統一した後に、則祐に感状を授与したことで感状山城と呼ばれるようになった。
城主が則房の頃、天正5年(1577)羽柴秀吉によって落城された。(大系より)
羅漢の里から整備された登山道がある。
大手門は主稜線から外れた南側にあり、石が多く転がっている。
主郭から二郭まで南北の細く、東側は崖上なせいか郭がなく、
西側が緩やかで腰郭が多く残っている。
西側の谷を下ると搦め手門の跡で、石塁が二段構えで残る。
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