海老名太郎左衛門尉家季が長治元年(1104)に源義家の判決の末に下向したというが定かでない。
別名の下司の海老名盛重の居城であった大島城はその後、赤松氏、その家臣の宇野弥三郎重氏・速弥太兄弟が城主となり、
その後、海老名弾正景知が城主となった。景知は赤松則村を助けるために白旗城に籠った。
その留守の際に、新田義貞に呼応して挙兵した児島高徳・和田範長が三石で大敗した後、大島城を焼き払っていったという。
(大系・現地説明板より)
現在は山頂部は善光寺境内となっているが、南側に郭跡のような跡や竪掘跡?が1本、石塁も残る。
また西側にいぼ取り井戸と呼ばれる井戸が残る。
建武年間(1334〜36に楠木正成が陣を布いたといわれる。
花隈合戦の際に、池田恒興が家臣の伊木・森寺氏らに守らせた。(大系より)
現在、大倉山公園となっていて、周囲よりやや小高い位置にあるくらいで、遺構は見当たらない。
永正年間(1504〜21)紀州熊野水軍の安宅一族が築城した。
天文5年(1536)三好元長の3男冬康が安宅氏の養子となり、
永禄7年(1546)冬康は兄の三好長慶に飯盛城で暗殺された。
天正9年(1581)11月秀吉の進出の前に安宅清康は開城した。
翌年、長宗我部氏は土着の菅平右衛門に洲本城を占領させたが、
山崎の戦に向かう秀吉が、仙石権兵衛秀久・石井与次兵衛に奪還させ、仙石秀久が城主となった。
天正13年(1585)四国攻めが始まり、11月脇坂甚内安治が城主となった。
慶長14年(1609)大洲に移封となると藤堂高虎預かりとなった。
翌同15年に池田忠雄の領地となり、洲本城を廃城し、由良成山城を本城とした。
元和元年(1615)大坂夏の陣の戦功により、阿波一国は蜂須賀至鎮の領地となり、由良成山城のままであった。
寛永8年(1631)、5年間掛けて、洲本に拠点を移転させた。(現地説明板より)
郷土資料館の裏手から登り出し、
西側の登り石垣は登山道封鎖で下部しか見られなかった。
八王子木戸の方は封鎖されておらず行ける。
江戸期の稲田氏でなく脇坂氏時代の遺構なのか、山上にかかわらず規模が大きく、石垣を多用している。
東側の登り石垣を見るべく、東側から下ったが、登山道とぶつからず見逃してしまった。
アワイチ中で余り時間的に余裕がなかったのが残念だった。
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