南北朝の頃の南朝方、湯山氏の居城であった。
また天文8年(1539)三好宗三が籠城した末に別所氏に落城され、
有馬氏が城主の時、天正7年(1579)織田勢に落城された。
現在、落葉山の山頂および妙見寺の辺りとされるが、
遺構らしい物は残っていなかった。妙見寺の境内の馬の像に、
「有馬城山」とあるくらいか。
有馬を治めるには、一望できる、標高も高過ぎず低過ぎず、抜群の場所といえよう。
瓦林政頼が永正16年(1519)頃に築城し、鷹尾城から本城を移したという。
細川高国方の政頼は、高国と細川澄元との争いに巻き込まれ、
その後、澄元方の城となり、その家臣三好氏の居城となった。
さらに松永久秀の台頭、足利義親(義栄)の入城等によりその経緯は複雑となったが、
最終的に信長軍の侵攻の前に存在は消えていった。
現在は地名として城山、城ヶ堀など残っているくらいで、
完全に住宅化し見る影もない。
寿永3年(1184)に平氏追討の功を認められた糟谷有季が印南郡南条郷を与えられた。
その子孫?の有数が初代城主で、六波羅探題の滅亡と共に勢いを無くした。
天正5年(1577)12代城主武則の時、秀吉が毛利討伐の軍議をここで開いた。
兄の朝正は別所氏に属くことになった。
その後も別所氏攻めの兵站基地として重要な城となった。
武則は賤ヶ岳の七本槍の1人として活躍し、加古川で3万5千石を与えられた。
その子の宗孝(真雄とも)は元和元年(1615)大坂夏の陣の時、大坂方として篭城し戦死した。
同年6月15日に破却された。(大系より)
現在、称名寺境内となり、遺構は残っていないが、説明版がある。
大井三樹伊予守宰任従五位左京亮が城主で、暦応2年(1339)8月30日に雁南荘地頭職を給わり、
ここに築城した。長禄元年(1457)3月山名宗全に攻められ、落城した。
(現地説明版より・部分的に消えかかり読めない箇所有)
現在、泊神社となっており、遺構は残ってないようである。
尚、当神社は宮本武蔵の養子の伊織が氏神であったことから荒廃していたのを再興させたことで有名なようである。
池田輝政の浦手奉行垂水半左衛門勝重の構えた役所跡に、
池田河内守が3万2千石を分与されて、築城した。
その後、政綱、輝興の時にも増築され、池田氏除封後、笠間から5万3千5百石で浅野長直が入り、
慶安元年(1648)6月に幕府に新城築城の伺いを立て許可を得て、寛文元年(1661)に完成した。
浅野氏断絶後は永井氏、その後森氏が11代続き明治維新を迎えた。(大系より)
本丸、二之丸、三之丸からなる。27年前に行った時は遺構は少なかったような気がしたが、
現在はかなり復元されている。
このページの著作権は、作者に帰属します。 画像などの2次利用は御遠慮下さい。