もともとは伊丹氏の居城。その後、信長の家臣となった荒木村重の城となったが、
信長に謀反を起こした。
しかし1年あまりの篭城のすえ荒木村重本人は毛利方へ逃げ出し、
残った人間は皆殺しにされた。
現在は伊丹駅のすぐ目の前にあり、遺構は駅の建設などにより多少なくなった模様。
築城者は信長の命により荒木村重とも和田惟政とも謂われる。
荒木村重が伊丹城からここに移り篭城し、その後逃げ、
池田信輝が落城させた。
現在は、花隈公園として都心の中に存在する。地下は駐車場となっている。
花隈城を落城させた功により、
池田信輝・輝政親子が花隈城の遺材も用いて築城した。
江戸期には一時尼崎藩領となった後、幕府直轄地となり陣屋が置かれた。
明治時代に入り、兵庫県庁となった。
明治時代に港として栄え、最近では再開発されている地域にある。
陣屋や県庁があった痕跡もない。
小笠原忠真が江戸期に船上城より移り築城した。
その後、松平氏、大久保氏、松平氏、本多氏、松平氏。
明石駅のすぐ北側に位置し、明石公園となっている。
説明板には、正慶2(1333)年
赤松円心が護良親王の令旨を受けて挙兵したことが、
『正慶乱離志』に残っているのが古い記録だとか。
信長の侵入により落城し、その後、荒木村重の治める所となったが、
謀反の後、兵庫城築城に石垣を移築されたとある。
信長公記巻一に『并に篠原右京亮居城越水・滝山是又退城』とある。
角川文庫ソフィアには注で、兵庫区滝山町とあるが、この滝山城とは別か。
また巻十一に『滝川左近・惟住五郎左衛門両人差遣はされ〜
三陰ノ宿・滝山・生田森陣を取り、御敵荒木志摩守鼻熊に〜』
とある。ここでも注は、川西市滝山町を引いているが、
場所を考慮しても場違いなように思われる。
新神戸駅の裏手から上り口があり、容易に登れる。
尾根伝いの道の途中から曲輪の跡が出現する。
石碑は本丸跡に残されてある。
本丸の下にある屋根付きの休憩所から尾根伝いにも曲輪が続いている。
また本丸跡よりも西方にある高いピークも平坦地となっていて、
ここも城址の可能性がある。
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