神出元頼が神吉に移り、姓を神吉と改姓した。
頼定の時、三木城の別所氏とともに信長から離反したがめに、
天正6年(1578)6月26日から攻められ、7月16日に落城した。
信長公記によれば、6月中には外堀から攻めて包囲してしまい、
降伏を言ったが許されず、15日に滝川一益、丹羽長秀が東の丸から攻め入り、
神吉民部少輔を討ち取り、天主に火をかけた。
また西の丸から荒木村重、佐久間信盛が攻め、
神吉藤大夫は降伏を許され志方城へと逃げ落城した。
現在は常楽寺の境内が本丸跡で遺構はない。
ただ現在も常楽寺は周りに比べ比高が3〜4m程高くかつての面影を残している。
白旗城の赤松氏の支城として築城されたという。
天文年間(1532-1555)には、
安室氏が城主でその後その家臣長船越中守が代官として入った。
天正5年(1577)に落城したという。
双峰の山で東側に本丸がある(左端画像)。本丸には数段腰曲輪があり、
ところどころ石塁が残っている。
西峰との間に井戸の跡か堀のような場所があり(左2画像)、
その南側は土橋のようになっている(左3画像)。
西峰も数段の腰曲輪が残っている(右端画像)。
駅前の駐輪場のおばちゃんの話によれば、
井上の付近には今でも石塁で囲まれた、
住民が避難する場所が残っているという。
但し、尊氏と義貞の攻防についてだろうが、
駒山城についてしきりに源平合戦がどうのこうのというコメントであるからして、
100%信用するには危険かもしれない。
荘園であり、薬師寺氏が管理を任されていた。
その後、細川澄元・晴元と細川高国の争いに巻き込まれた。
また高国滅亡後は、晴元と家臣三好氏の争いになり、三好方の城となった。
越水城の属城となり、信長の侵攻もあり、廃城時期は不明らしい。
現在は、南西部の土塁と堀が残っているが、
所有地問題を抱えているらしく中には入れない。
鎌倉時代末期から瓦林氏の存在が知られる。
その後15世紀後半、瓦林政頼は、細川高国に従い、細川氏の相続争いに巻き込まれた。
元亀元年(1570)瓦林三河守が越水城で篠原長房に攻められ討死にし、廃城になったと考えられている。
現在の日野神社に石碑があるが、城址はここでないと考えられているとのこと。
神社の境内の東側にうっすらと土塁らしき跡があったが、遺構ではないか。
瓦林政頼が築城した。細川高国に従い、細川氏の内紛に巻き込まれた。
その後、本城を越水城に移した。廃城の時期は不明。
現在、鷹尾山山頂部から北側に遺構が残っている。
長い空堀が2本あり(左端画像)、さらに堀切が2、3箇所残っている(中央、右端画像)。
が、戦時中に高射砲の観測塔が建てられていたらしく、遺構は当時の物は判別しかねる。
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