天正10年(1582)11月の小金原合戦の際に立花方がここで休息した。
宗像氏家臣井原九郎が守ったとも云う。(福岡県中近世城館遺跡等詳細分布調査報告書2より)
新幹線のトンネルがすぐ下を走っている。
山頂部には給水塔のような物があり後世の改変が甚だしい。
西側に明確な堀切と、さらに下った所に埋められた堀切の跡がある。
鬼杉城の出城という。(福岡県中近世城館遺跡等詳細分布調査報告書1より)
内住本村の集落に「懸尾古城跡」の立派な石碑があり、獣除けのネットをくぐり、
畑を迂回するように東側に進むと山道があり、途中崩落しているが、さらに進むと、
堀切っぽくも見える交通壕に出て、そこから北方向に尾根を登る。
尾根は切岸なのか段がはっきりしており、中腹で綺麗に削平された郭らしい跡に至る。
ここからさらに少し登ると主郭の直下に至る。
主郭の斜面には石塁のような古い石が目立つ。
また北東側に土塁と空堀のような跡もある。
主郭へ登ると、ここにも立派な石碑があって驚かされた。
西に1段下がって郭があり、その西側は竹林と化しているが、堀切となっている。
その先も少し削平されている感はあるが、すぐに自然地形となった。
詳細は不明
247.mの三角点から北東に尾根を下って行くと、2重堀切に至る。
さらに堀切が2本あり、土塁か櫓台を伴った主郭らしき232m地点となる。
この辺りは削平されており、北東へ下ると、やや自然地形になるが、
古墳なのか2段からなる郭があり、その直下には堀切が1本あり自然地形となる。
上馬敷の神社の裏の尾根から登ったが、北東の郭を下った所が墓地なので、
そこから直登するのが楽であろう。
筑紫広門の家臣、島鎮慶であったが、いつ築城されたか不明。(古水遺跡(6次調査)現地説明会資料より)
今回の6次調査で外堀であった空堀らしき溝が見つかった。
現在は幅4m深さ2.2mであるが、内側は宅地造成で削られているので当時は比高はもっとあったと推測される。
主郭跡とされる所はかつては微高地だったらしい。その西側は崖となり湿田だったとか。
今では住宅地となってしまい容易に発掘することもできないようだ。
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