宗像氏の居城。 許斐城の出城。 立花城に対する守りのために築かれた。
立花氏時代にも築かれていたが、本格的には小早川氏の筑前拠点として。
黒田長政の時代に手狭なため、
今の福岡城に移ることになり、廃城となる。
崇福寺に名島城の門と伝わる唐門がある。
天拝(判)山はもともと菅原道真が京に戻ることが出来るように、
この山に登り天に祈ったことから命名されたとか。
戦国時代になると、筑紫氏の
勝尾城
の支城として天拝山に、高橋氏の岩屋城、宝満城
に対する備えとして築かれた。飯盛城は天拝山城の砦として。
天拝山には、JR天拝山駅で降りるより、二日市駅から武蔵寺を経由して行く方が
早い。天拝山頂上で食べる梅枝餅はまた格別。
【追記】
天正14年(1586)島津氏の北進で筑紫広門の家臣帆足弾正が守っていたが、
あえなく落城した。築城時期ははっきりしない。(現地案内板より)
天拝山山頂から下り、尾根上に堀切がかすかに残っている(左端画像)。
そこを下ると、堀切2本ある本曲輪下に出る(左2画像)。
本曲輪は10mくらい登った上下2つの曲輪からなるが、余り成形もされていない。
麓へしばらく下った辺りに、武者隠しと云われる、2段の切岸があり、
切岸の内側は今ではかなり埋まってしまっているが、当時は窪みをつけて、
射撃していたらしい。
永禄3年(1560)3月28日宗像鎮氏が拠点としていたが、毛利元就の支援を受けた宗像氏貞に夜襲を受け討たれた。
8月16日に大友勢に攻められるも、これを死守した。その後、氏貞は岳山(蔦ヶ嶽)城を本拠とするようになる。
(福岡県の城郭より)
東八並から登ると尾立山の西側の切岸や堀切があり、山頂に至る。
東尾根には7本堀切があるが、やや埋まりつつある。
北尾根へ下ると、堀切があり登り返すと、横矢のかかる堀切がある。
南側は郭が数段ある。
金魚池を経て北へ行くと主郭直下の深い堀切で、東側へ行くと数本竪掘が残る。
主郭は2段の郭からなり、東側に馬場があり、その先にも大きな堀切がある。
一方、北側には大きな堀切があり、ラジオ・TV中継所があり、
西側に竪掘があり、北尾根に2本深く削られた堀切があり、さらに4本堀切が残っている。
その後、王丸へ下ったが、この六之神社裏に堀切などあり、麓城であったことを知ったのは帰宅してからだった。
黒田長政が築城。天守閣はあえて造ら(れ)なかった。
大手門は2000年8月不審火により燃えてしまった。
現在は警察の黄色いテープで囲われている。
崇福寺に門が移築されている。
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