2019年に国指定遺跡に指定された。
神宮皇后がこの迹驚岡(とどろきのをか)に来て、武内宿禰に裂田の溝の工事の際に出てきた大盤(おおいわ)を雷をもって通させている。
史実的には、奴国を支えた大集落があり、その後時代が下ると、平安時代に原田氏の居館が置かれ、
安徳天皇が仮御所を置いた。
鎌倉時代以降は岩門城の少弐氏や大内氏と関連するか。
現在は耕作地となっているが、高台の上の平坦な地は弥生時代から、水害にも外敵からも守られる一等地だったのだろう。
15〜16世紀の方形区画も発掘されており、今後の発掘が待たれる。
大炊という人物が在城したという。(福岡県中近世城館遺跡等詳細分布調査報告書1より)
360.2mの三角点のある山頂部にある。北側に腰郭があり、南側には基山へ連なる尾根があり、堀切が1本残っている。
位置的には、宮浦城と主稜線を挟んだ反対側の位置になる。
秋月氏家臣古賀平左衛門の居城だった。
(『福岡県中近世城館遺跡等詳細分布調査報告書1』より)
田中天満宮の裏手から登ると主郭に至る。
主郭の南側に郭があり、そこから登ると主郭で、北側に土塁があり、その先に深い堀切があり、
細長い郭がある。
主郭の東側に7本、南西側に4本畝状竪掘があるようで、数本は確認できたが、幅が広く、浅めであるため、
いまいちはっきりしなかった。
歴史的な詳細は不明。
稚児忘南峰から尾根伝いに来ると、後世の交通壕の可能性もあるが、小さな堀切があり、
しばらく遺構はない。その後、傾斜を稼いで登りきった所が、五位山の北峰で、
東へ続く細長い尾根上に郭があり、中央部に堀切がある。
急斜面を南に下ると、鞍部で、堀切ぽくもある。しばらく自然地形の細長い尾根を進むと、
2重堀切が残る。斜面には石塁なのか石が混じっている。
登り切ると主郭で、南へ傾斜を緩めて尾根が続くだけで、特に畝状竪掘なども残っていない。
主郭から南側には遺構はないようであるし、むしろ北側に堀切が残っていたりと防御というより陣城に適しているようにも見えた。
文久3年(1863)に建設された秋月藩の別御殿。
(『福岡県中近世城館遺跡等詳細分布調査報告書1』より)
現在は上秋月小学校の跡地となって駐車場として利用されている。
周囲に当時の石垣が残っている。
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