大村讃岐守、弟因幡守の居城という。(現地説明板と福岡県の中近世城館跡IIより)
湯原山から北へ伸びる尾根の突端に位置する。
南側の尾根を断ち切る堀切は深いが、
それ以外目ぼしい遺構はない。
後世に地蔵が祀られたせいか、それに伴う工事の跡などが残っている。
少平17年・貞治元年(1362)に足利軍と菊池軍の長者原の合戦の際に足利軍により築城されたとも、
天文年頃に杉連緒に属した毛利三郎の居城だったとも。
毛利三郎の子孫はその後、飯野姓に換えたという。(現地説明板と福岡県の中近世城館跡IIより)
円形の平坦面で北側にはほとんど遺構らしい物はなく、
南側に堀切があるくらいである。
周辺は植林などされているので、消滅したものもあるか。
アプローチは87札所の弘照院から登山道もあるが、樹芸の森手前の舗装路横から入る方が楽である。
高鳥居城の杉権頭連並の出城という。
(福岡県の中近世城館跡IIより)
199.7mの三角点があるのが主郭で西へ4段郭が続く。
南側からアプローチしたが、南側の傾斜はきつい。
一方、最下段の郭の先もかなりの傾斜となっている。
「筑前要領」には藤豊後守を城主としている。(福岡県の中近世城館跡IIより)
篠城から踏み跡があり、登って行くと、南側にテラス状の腰郭があり、東側の帯郭から中へ入る。
堀切を挟んだ南側の郭と、水堀を西側に備える北側の郭に分かれる。
篠城、立林城に比べ、一番丁寧に作られ、規模が大きい。
安永氏の端城。(福岡県の中近世城館跡IIより)
草場城に比べるとやや小ぶりである。
畝状竪堀が数本あったようだが、埋まっているせいか、よく分らなかった。
東側の長方形の郭の先に、堀切があり、主郭で、その背後に堀切がある。
その背後の尾根沿いに踏み跡があるので、怪しいと睨んでひたすら登って、西山まで到達したが、
確かに遺構はなく、最高地点にある城跡であるようだ。篠城や草場城と技術的に似ており、
同時期に連携して使用されたのだろう。
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