秋月24城の1つ。もともと南北朝時代に井手氏が北朝に寝返ったのを、
南朝の星野氏が攻め降伏させた。
その後、戦国期に秋月種実は、中願寺左近少監を城番とした。
現在は町立体育館の裏手と脇に登り口がある。
本丸を中心に三日月の形に北東から、南西方向に伸びている。
本丸には愛宕権現なる祠があり、かなり荒れ放題で薮だらけである。
本丸の下った辺りに腰曲輪が歴然と2段残り、また北東方向にも曲輪の跡が残っている。
秋月24城の1つ。長尾城の端城。日田近江が城番だったというが不明な人物だという。
杷木神籠石と重複遺跡である。規模は小さいが東側は削りとられてあるが、
曲輪の跡がはっきりと残る。西側に神籠石の列石が見られる。
秋月24城の1つ。木村甲斐、木村源太左衛門が城番だった。
城主が不在時に大友氏に攻められたが、
木村甲斐夫人がこれを撃退した。
現在は果樹園、墓地となっていて遺構はかなり見分けにくい。
神籠石第1水門から北に行く道に沿って堀に囲まれてあることが分かる。
また水門から東に行くと石塁(神籠石ではないと思われる)がある。
城主不詳。またの名を薬師山城。
武蔵寺から、その裏手にある、天拝山から北に伸びる稜線にある山にかけての一帯。
武蔵城の遺構はよく分らない。
堂ノ山砦は御自作天満宮の裏手にある山。
天神様の径の入口から北へ行くと2段の堀切があり、砦跡がある。
跡に登るのは「立ち入り禁止」と書かれてあるので無理であろう。
西に周ると砦の概観が把握できる。
三笠郡における筑紫氏の拠点。家臣の帆足氏の居城。
武蔵城の詰めの城。
天拝山頂上が本丸跡とされているが、余り遺構ははっきりしない。
頂上一帯は2段からなる平地で広く、展望もよくきく。
特に高橋氏の宝満、岩屋方向はもちろんである。
【追記】山頂すぐ下に堀切が残っていた。
【追記2】最近山中を走っている時に城跡らしさが結構残っていることに気付き改めて探訪した。
山頂から塔原への尾根を下ると、深い堀切がある(下段左端)。こちらはこの堀切が道となり下っており、
堀切が利用されたのか、道が堀切状となったか、判断に迷うところではあるが、
周囲の尾根にも切岸のような跡や、削平された跡があり、遺構としたい。
参照西側の急峻な尾根上にも堀切の跡がある(左2)。後世埋められたのだろう。
その上部も堀切があったような痕跡もある。
一方、東側も2条ある。上部はやや埋もれ、下部の方はよく残っている(左3)。
山頂から筑紫野ICの方へやや荒れた尾根道があり、これを下ると、細い尾根沿いに、
アップダウンがあり、砦のような小山が幾つか続く、しばらく下ったところに、
幅1m深さ1m程の堀切があり(左4)、さらに1山越えて北に下ったところに1条(左5)あり、
こちらは2mくらいの高さと幅がありダイナミックである。
ここからさらに北へ竹林を下ると、もう1条ある(右端)。
ここから下ると八ノ隈池はすぐである。天拝山城からはそこそこ距離があり、
飯盛城とは尾根が違う。全てを含んだ、武蔵の城の跡となろうか。
このページの著作権は、作者に帰属します。 画像などの2次利用は御遠慮下さい。