三ノ瀬城、高朶(高須田)城、熊ノ川城、前河内城、坂本城をもって、辺春城と認識されている。
(福岡県の城郭より)
長瀬から上辺春小学校を通り過ぎて少し行った北側の林道を上がる。
しばらく登った北側の斜面に平石積みの石塁が20mくらい残っている(左端画像)。
そこを過ぎて、少し登ると城址に至る。
林道から入るとすぐに土橋があり(左2画像)、
残念ながら南側の横堀は、よく残っているのだが(左3,4画像)、途中で切れており、林道の開削で消滅したようだ。
北東側から北側へは横堀と土塁はよく残っている(右端画像)。
横堀の途中に石塁らしい跡もある。
一方土橋を渡った先が主郭であるが、茶畑になった際に手が入ったらしく、
遺構はないようだ。
蒲池能久または蒲池鑑広が築城したという。
永禄7年(1564)大友宗麟が筑後に侵入し、降る。
耳川の戦いで大敗すると、
筑後は龍造寺氏に属する諸氏が現れ、柳川城主の蒲池鎮並も龍造寺氏に寝返った。
天正7年(1579)龍造寺隆信に攻められ、大友氏に助けを請うも断られ、降伏し、龍造寺氏に降った。
その後、沖田畷で隆信が討死すると、島津氏に降った。
天正15年(1587)筑紫広門は秀吉に上妻郡を拝領し、ここを本城とした。
が、慶長5年(1600)西軍に属したために没収となり、加藤清正に明け渡し、
城番として加藤百助が置かれた。
翌慶長6年(1601)田中吉政の領地となり、廃城となった。(福岡県の城、福岡県の城郭より)
主郭の西側は果樹園であるが、現在では、獣除けのためか柵が施され、
主郭以外中へ入れず、西側の郭や、堀切を見ることはできなかった。
主郭へは道はないが、急斜面の坂を上るとすぐに郭に出られる。
堀切があり(左端画像)、南側には横堀がある(左2画像)。
縄張り図では堀切が2条あるので、1つ見逃したようだ。
堀切から急斜面を登ると、郭があり、さらに1段上った所が主郭で、
果樹園との境に大正7年に立てられた石碑がある(左3画像)。
主郭の北側の郭の縁は石塁で補強されている(左4画像)。
また北側には腰郭が数段残っている(左5画像)。
築城者などは不明。内山城や内山館と関連したのだろうか。
かんかけ峠への道を12カーブ手前の荒れ気味の林道から入る。
荒れた林道を進むと水流で道が崩れているので、林の中へ下り、
ピンクの作業用テープを頼りに谷を越え、荒れた林道に戻る。
廃道と云って良い状態で、一ヶ月前は退却したが、藪を果敢に攻め、川を渡り、ひたすら林道を進み、北に突き出た辺りで、
林の中に入り、しばらく下ると、堀切があり(上段左端画像)、郭Iに至る。郭はやや整形されており、
西側に横堀があるが(上段左3)、当時の物かはよく分らない。
301.0mの三角点からさらに下って行くと、やや浅めの堀切に至り(上段最右)、郭IIとなる。
ここは自然地形に近い。少し下ると、約8mの大堀切があり(下段最左)、郭IIIに至る。
この郭は割と成形されており、北側へ尾根沿いに郭が何段も続き、
石塁らしい跡も残っている(下段最右)。標高は一番下であるが、III郭が主郭のように見受けられた。
星野右衛門大夫が築城したという。(福岡県の中近世城館跡IVより)
かんかけ峠の道の2番カーブ先の林道から入り、しばらく行くと、
山へ入る登山口らしい入口があり、ひたすらに道に従って登り、
途中分岐があるが、山頂を目指していけば、城址である、大谷山に至る。
道自体、尾根上の郭群を突っ切るように作られており、当時の物でなく後世に作られたのだろうか。
狭い郭が何段も続く。堀切などの技巧的な遺構は見られない。
357mの山頂の裏側は切り立って急こう配になっている(右2画像)。その先は特に遺構はないようである。
北西の伸びる尾根上にも10段以上郭があったようだが、今回は未確認。
『旧柳川藩志』によれば
明応・文亀年間(1492〜1502)の溝口常陸介・帯刀、永正年間(1504〜1521)溝口薩摩守の居城であった。
入江文書には康永2年(1343)に溝口禅院城を攻めたと記載されている。
(「福岡県の中近世城館跡IV」より)
熊野神社の背後から尾根を登って行くと、谷からの道が堀切の様になり、
主郭からの尾根道に交差する辺りに出る。
この辺りも数段の切岸があるが、後世の物か。
主郭は三日月の様な縄張りで3つに区画されている(左端画像)。
西側に堀切があり(左2)、南側には1段腰郭がある。
特徴的なのは南側の3重堀切で、主郭自体は古臭さを感じたが、
この部分は小田城と関連して後に改修されたのだろうか。
後世に地ならしされたようで、破壊されたのが悔やまれる。
細長い構造が付近の国見山城
や山下城と似ているように感じた。
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