天正15年(1587)6月25日13万2,200石の領主として立花宗茂が秀吉に任命されると、
鷹尾城に立花(米多比)三左衛門鎮久を入れ、中島城の勤番も兼任させた。
その後、柳川藩主となった田中吉政の家臣宮川才兵衛が鷹尾城の城番となり、
同様に中島城の兼番した。(現地説明板より)
遺構はなく、城域内に「タブ神さん」と呼ばれる祠が祀られ、
「二重」という二重掘を示す字名がこの一帯に残っている。
天正14年(1586)島津勢への防衛のために甘木家棟が築城した。(福岡県の城郭より)
西牟田刑部大輔重家の末弟甘木河内守家恒が初代で、
天正6年大友氏が耳川の戦いで敗れた際に、5代家棟と6代安家は戦死し、
7代の家長は幼少で残った。天正14年7月4日に島津勢に攻められ落城し、
家長は家臣姫野左近有忠を伴って肥後国石村に蟄居した後病死したという。(現地石碑より)
鬼之淵集落の背後にある山で、城ヶ滝不動入口から入って、すぐ民家の背後にある九十九折の道から入る。
入口には標識もなく、現地の方に入口まで連れて行っていただいた。
城址までの道の途中に、後世の物だろうが、古い石塁が所々点在する。
登り切った所が石碑のある最高部(主郭?)で、南側に虎口の跡だか石塁も残る(上段左端)。
その手前の南側に腰郭があり、南斜面に竪堀が3本残っている(上段左2画像)。
一方主郭は西側に土塁が残り、そこに石碑がある。
1段北に下がると、2郭?で、土塁に四方を囲まれる。
さらに1段北に下がると3郭?で北側にかなりの高低差のある堀切が残る(下段1,2画像)。
堀切の先の尾根には余り手が入っておらず、尾根沿いに、堀切が2本確認できるが(下段右1,2画像)、
その先はしばらく行ってみたが、平坦地はあるものの自然地形の様だった。
建武5年(1338)3月3日石垣城で合戦。
応安8年(1375)2月門司左近将監入道聖親申軍忠事に石垣城の記載があるという。
(福岡県の城郭より)
石垣から南へ登って行く林道があり、
ほぼ終点辺りから谷を詰めて行くと、主郭である416mのピークに行ける。
南側は山頂へ続く尾根と繋がり、西側に堀切らしい跡が残る(左2画像)。
主郭は円状で、麓から登ってくる北側が土塁で高まりがある(左3,4画像)。
それ以外は削平されているために自然地形でないと思われる。
先週は間違った尾根に入り込み、遺構を見いだせずすっきりしなかったが、
こちらもここが石垣城であるのか確証はない。
が、遺構はうきは市の西の城と形態が似ており、城址であろう。
福岡県の城では、新田城か。浮羽郡誌では観音寺城か。
また、麓(山つど)には石塁で段になった所があり、
屋敷でもあったのか、いつの時代の物かはっきりしない。
天正7年(1579)頃、龍造寺隆信が辺春入道紹真を降伏させた。
さらに天正10年(1582)にも堤筑前守貞元は龍造寺氏に兵を借り、辺春の城を攻撃し、
辺春薩摩守鎮信は高良山玉垂宮大祝鏡山安常、稲員大蔵大輔安茂の応援を受けて応戦するも、
尽く戦死した。秀吉の九州征伐後、天正15年(1587)肥後国人衆が蜂起すると、
小早川隆景配下の粟屋四郎兵衛尉、朝枝右京亮に安国寺恵瓊をつけて、
辺春の城を包囲し、落城させた。(福岡県の城郭より)
キウイ農園の横から強引に竹藪の中に入った。
入った所が南端の堀切で、南西隅に石塁がある(左端画像)。
西斜面には畝状竪堀があるらしいが、竹が伸びまくり、
確認しにくいが、うっすらと痕跡はある(左2,3画像)。
急斜面を登ると主郭で、北西に下った辺りに、綺麗に堀切が残っていた(右端画像)。
南東にも主郭は伸びているが、後世に開墾されたせいか、
遺構は残っていなかった。大きな石がありひょっとすると虎口でもあったか。
辺春城の1つであった。
吹春から林道を登り、225.0mの三角点付近のようだが、三角点を見付けられなかった。
最後部の北側に切岸のような跡(左2画像)、さらに石塁の跡らしい痕跡があるくらいで(右端画像)、
山頂部も後世の開墾作業で手が入っている。
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