星野右衛門大夫が築城したという。(『福岡県の城』『福岡県の城郭 戦国城郭を行く』より)
かんかけ峠への登り道の果樹園を通り過ぎた10番カーブの裏手から入る。
痩せた尾根があり、東側に2段くらいの腰郭があるようだが、藪っている。
その尾根を北へ行くとすぐに土塁(左端画像)と、大きな堀切があり主郭が屹立している(左2,3)。
主郭は平坦で(左4画像)、北側に1段下るとさらに平坦地がある(左5画像)。
一方、山苞の道の榎地蔵から登って行くと、途中杉林で薄暗いが館跡なのか雰囲気が残っているエリアがあった。
その先の小烏神社の鳥居のある場所の北側に堀切のような遺構があった(下段左1,2画像)。
ここから登って行くと、小烏神社があり、砦だったようだが、
神社となっており遺構はなかった(下段右画像)。そこから内山城までの尾根上は未確認。
追記
再訪し、小烏神社から城址までの尾根を辿ってみたが、急斜面なせいか、遺構らしい物は残っていない。
一方、宮地嶽神社からの尾根も辿ると、主郭手前に堀切が2条残っていた。
また小烏神社の鳥居のあるエリアは、堀切らしい遺構以外にめぼしいものは見当たらなかった。
星野一族の城で鷹取山城の出城として星野重安が築城した。(『福岡県の城』より)
平原公園から車道を歩き、395.3mの三角点を目指す。標高400m辺りの北へ出っ張った箇所から入ると、
作業用か人の手が入った跡があり、ここを登ると半円状の郭がある。
ここが主郭らしく、北へ下って行くと、薄らと堀切があり、三角点のある二郭となる。
嘉吉の乱を起こした赤松満祐の子、教康が文安年間(1444年頃)に築城した。
則国、祐国と続き、姓を広瀬と替えた。永禄5年(1562)筑紫惟門に攻められ落城した。
(福岡戦国武将物語(中)より)
現在、甲条神社が城址であるらしいが、遺構は残っていない。
南側は今も水田で神社の境内まで比高5mくらいあり、
御神木のタブノキ?が祀られている。北側は住宅地となっている。
新田義信の居城と伝わる。
鳥飼集落の中心にあり、遺構は残っていない。
印鑰神社の境内に新田大明神がある。
山下城主蒲池鎮運の家臣一条和泉守が城主だった。
天正13年(1585)竜造寺政家の家臣横岳頼次山下城を攻めるべく、まず知徳城へ迫った。
和泉守兄弟は大野が原で迎え撃とうとしたが、討ち死にした。(『ひろかわの郷土史』より)
現在は下広川小学校の敷地内の東側に、熊野神社が祀られている。
山頂部はやや藪っており(左端画像)、北側に竹林があり、切岸らしい跡が残る(中央画像)。
また主郭東側に腰郭があり、南北に空堀の跡が残っている(右端画像)。
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