鷹尾城主田尻氏の家臣、田尻大蔵が城主であった。(瀬高町誌より)
現在はこれといった遺構はないが、住宅地となった周囲をクリークが囲み、一段高くなっている。
鷹尾城主田尻氏の家臣、福山将監が城主であったが、
天正12年(1594)堀切の住民は大友氏の家臣平井鎮経を迎え、田尻鑑種、福山将監と対抗した。
一時は大友勢の加勢で勢力を振るったが、島津氏の北上で山田有信に攻められ落城した。(瀬高町誌より)
現仁神社の南側、クリークに囲まれた住宅で、周囲よりも一段高くなっている。
川崎氏の犬尾城の支城と伝わっているがどうであろうか。(福岡県の城郭より)
犬尾城から南西に一旦尾根を少し下り、送電線を過ぎた辺りから少し登り返し、
しばらく行くと至る。唯一ある案内板から入り別の東側の尾根を誤って下り苦労した。
標識を無視してもうしばらく西側から行って、「C」の標識から入る方が分かりやすかった。
城址は犬尾城のある東側にいきなり大きな堀切があり(左端画像)、
北側は横堀を廻らせ、西端辺りに堀切があり、北側の谷へ伸びている。
西側の帯曲輪からそのまま主郭へと登る道があった。
また北側の横堀の中央部に現在橋が架かっており、城内へ誘導される(中央画像)。
南側には麓へ続く道も残る。
主郭には祠も残っているが土塁などはない(右端画像)。
南側は守りが薄く、本城と支城の関係性があるといわれる東側がなぜか厳重である。
犬尾城攻めの陣城として機能した時期もあったのであろうか。
山下城主蒲池氏の出城として築城された。
天正15年(1587)筑紫広門が福島に入った際に支城としたが、
慶長5年(1600)関ヶ原の戦いの際に西軍に属したことで没収となり、廃城となった。(福岡県の城より)
高校の農園の南側に位置し、場所は分かりやすいが、荒れていて、藪蚊の多さに辟易させられた。
郭は東にかけて高度を上げていくがそんなに標高差はない。
周囲を横堀が巡っているが、北側は藪で確認できなかった。
南側は急斜面ゆえか一部横堀がない。
東側には細い畝上竪堀が数本あり、竹藪となっているのではっきりとしている。
一方南西側にも横堀に繋がって数本残っている。
西に尾根を下ると、1本堀切が残っている。
妙見城の西に位置する支城というだけで、
城主や築城時期は定かでない。
百年公園からそのまま南下し、果樹園の先で道がなくなり、
一旦果樹園を横切る。
前城だったのか、果樹園となっているが最後部が祠となっている場所があり、
見晴らしが良かった(上段最左画像)。
しばらく果樹園をアスファルトで登り詰め、道が尽きた所から、
藪化した道に入る。植林された地点までが我慢のしどころで、
藪となっているが道は残っており、なんとか杉の植林地点に出て、
そのうち別の口から来たらしい登城路(上段左2画像)と合流する。
登城路は城址まで続くのでまず迷わないが、倒木が多く荒れており、歩きにくかった。
城址手前にいつ作られたか分からないが石塁の様な物があった(上段最右画像)。
城址へは東斜面を強引に登ると、畝状竪堀らしい物があったが(下段最左画像)、
倒木が多くはっきりしなく残念だった。
主郭は円形に近い形で綺麗に成形されており(下段左2画像)、北側に土塁が残っている(下段左3画像)。
西側がやや開いており、1段腰郭があり、そこから下へ下る尾根に堀切があった(下段左4画像)。
一方、主郭の南側は耳納連山に続く尾根に繋がるので、守りが厳重で、
西へ1本横堀があり、その下に土橋を伴う堀切があり(下段右2画像)、尾根への道と繋がっている(下段最右画像)。
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