岩橋氏の居城。岩橋氏は神功皇后の三韓征伐の際に功あり、この地を賜ったという。
戦国時代末期に母親が大友宗麟の姉で、室が筑紫氏であった対馬守宗岸の時に、
子供が2人おり、菊姫と松王丸と云ったが、
菊姫を秋月種実が要求してきた。既に高橋氏と約束があったので、
拒絶したところ、種実の怒りを買った。
天正14年(1586)島津氏の北進の際に、城を焼いて、筑紫氏の鷹取城に拠り、
島津氏の川上左京と差し違えた。宗岸は39歳であった。
(川上左京と差し違えたのは筑紫春門とされるが如何に?)
松王丸は9歳で、その後名島城に、さらにその後故地に帰り、
新左衛門尉麟可と称し、古賀村150石を隠居料としたという。
(現地説明より)
現在は石碑以外明確な遺構は残っていない。西側は田んぼでかつては堀だったか。
周囲をクリークが流れており、水掘の名残であろうか。
高良山大弐は柳坂表にて発心岳の悪党を追い払う、と『福岡県の城郭』にある。
谷山城訪城の際に地元の方に教えていただいた。
谷山城の麓、山本町豊田に位置する。
神社の裏手に、果樹園の跡なのか、城址そのものなのか、切岸の連続があり(最左画像)、
登り切ると、石塁らしい跡もある(左2,3画像)。堀切など遺構らしい遺構がなく、確証に乏しい。
さらに谷山城へと尾根を進むと、
昔祠があったのかコンクリートブロックだけが残っていたり、
さらに登ると切岸らしい跡があったりする(最右画像)。
そのうち谷山城下に出るが、遺構は残っていない。
豊田からさらに西の放光寺にある、東山(159.7m)の南側の尾根上にあり、城なのかはっきりしない遺構?。 ここも果樹園だったのか、切岸が幾重にもある。 最後部の北側の上部の2,3だけに石塁がある。毘沙門嶽への南側に続く尾根には堀切もなく、 遺構は何もない。単に果樹園の名残だけなのかもしれない。
星野右衛門大夫が築城。(福岡県の城・福岡県の城郭より)
内山城入口の先の12番カーブから植林地帯に入る。
しばらくは急斜面の植林地帯で木々を掴んで高度を稼げるが、
高度を上げると北斜面にシダ類が繁茂しだし、南側に廻りこみ、なんとか150m以上登り、
虎口に辿り着いた。
虎口は後世の手が入っているのか、石段が作られている(上段左2)。
さらに2段郭が段状に続くがそこにも石が残っている。
主郭はさほど広くはなく、南北に細長く、両サイドにはかすかに土塁の跡の高まりがある。
中心部らしい所に祠の跡なのか、石段が残っている(上段左3)。
すぐに搦め手口で、5m下る。やや幅の広い堀切?で、
尾根上に郭らしい跡が続く。
さらに南下すると、1本目の堀切(下段最左)があり、
さらに南下し登って行くと、後世に埋めたのか土の色が違う土橋となっている、
2本目の堀切がある(下段2,3)。埋めなければ相当深い堀切だったようである。
後日同場所を通過したが、14番カーブから登った方がアプローチしやすそうに見えた(未踏査)。
歴史的な背景は不明。近くの高丸城や内山城の詰めの城か。
24番カーブから入ってすぐである。
西側から登ると、最頂部手前の堀切から竪堀が1条下っているのが確認できる。
だが、遺構で残っているのはこれだけでやや藪っているのもあるが、
尾根上にも遺構らしい物はない。
南側の方に伸びていたのかもしれないが、道路によりそれも消滅している。
天正9年(1581)6月2日、塩塚城落城の翌日に龍造寺勢が、田尻勢と小代勢と共に攻め寄せた。
城主蒲池統春を始めとする100余人全滅した。(現地説明板より)
現在は、皿垣にある、戒音寺周辺が城址らしく、遺構は残っていないようであるが、
クリークがかつて水掘だったようで、雰囲気は残っている。
このページの著作権は、作者に帰属します。 画像などの2次利用は御遠慮下さい。