応安8年(1375)2月門司近将入道聖親軍忠申事に紅桃林城とある、と福岡県の城郭にあるが、
遺構からすれば、草野氏の発心城の支城として滅亡の最後まで使用されたのだろうか。
発心公園の東側の190m強のピークを中心を主郭とした城である。
草野又六の顕彰碑から林道に入り、突き当り付近から強引に尾根を登り切ると、
上段左画像の堀切の1本目となる。
その先に矢だけの生い茂った2本目の堀切(上段中央画像)を強引に越えて登ると、
平坦な郭に至る。この郭は下の城へ伸びる尾根だったか。
標高の高い南東に向かうと主郭で、そこそこ広い平坦地である。
南側の急斜面の下った先には堀切がある(上段右画像)。
一方、北側へ一段下ると、その先に幅の広い堀切があり(下段最左画像)、
その先にも郭が1つ続く。
一方、主郭の東側には畝状竪堀が3条ある(下段左2画像)。
また、主郭の北面から西にかけても、4条?くらい畝状竪堀が残っている(下段右1,2画像)。
なかなか立ち入ることが困難であるが、残存状況の良い城である。
アスファルトの林道があるが、倒木が多く荒れている。が、ある程度麓まで行ける。 麓の辺りは果樹園だったのか、レールの残骸や切岸など果樹園の名残がある。 山頂に向かって登ると堀切があり(最左画像)、城址だと確信できる。 そこから主郭までは比高5mくらいで規模は小さい。 一方、上の城方向の尾根に対しては深い堀切となっている。
148.9mの三角点のあるピークを主郭とする小規模な城である。 上の城へ向かう道を途中で植林地帯を抜けて登ると上の城へ向かう堀底状の古い道があり、 その左側から登り直角に北へ曲がると、土橋があり()、東へ竪堀が落ちている(最左画像)。 主郭はそんなに広くもなく、荒れている。 西側に2mばかり腰郭らしい跡が残る。 一方、土橋から反対方向、上の城へ登ってみたが、登り切った所で、 矢だけに道を塞がれ断念し、別の道で至ったが、そこを登り切れば、最初の郭に出たかもしれない。
白山(677m)の山頂部にある。もともとは城山(シロヤマ)だったのか。 山頂の西側に堀切があり、その堀切が北の斜面にそのまま 畝状竪堀となって10mくらい落ち、さらに2条畝状竪堀が同様に10m以上残っている。 発心城の支城だったのか、東側は堀切も竪堀もない。 草野歴史資料館でいただいた発心城への登山ルートの資料では、 西側にある、グライダー山も城跡だったようだが、現在は少なくとも山頂部はグライダー基地となっていて、 遺構は見当たらなかった。
谷山右馬祐義修が菊池氏とともに懐良親王を奉じ、足利幕府、九州探題と戦った際に本拠とした。
(千光寺前説明板より)
説明板にある永勝寺裏の標高240mの弧峰へ林道から入ってみたが、
最後部は藪だらけで遺構らしい物もなく、
さらに北へ尾根を進んでみるものの、平で兵の駐屯は可能そうであるが、
人の手が入っている痕跡は残っていなかった。
尚、千光寺には懐良親王の物と伝わる墓陵がある。
また、ここから少し登った、兜山も城址であると草野の資料館に展示してあったが、
キャンプ場化されていて、遺構はなかった。
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