筑後11



松延城舞鶴城田尻飛塚城三池山城谷川城

松延城

みやま市(旧瀬高町)【最寄り駅】JR鹿児島本線瀬高駅

樺島式部が、竜造寺氏に攻められる山下城主蒲池鑑広に援護するために築く。 柳川藩が立花氏の頃に立花三郎右衛門が城番となり、関が原後は 田中吉政家臣松野主馬が1万2千石で城番を勤めた。 一国一城令で廃城になった。
遺構としては、城台や堀の跡が残る。堀は田んぼと化しているが、 かつての面影を残す。城台は孟宗竹で囲まれていて、 周りより3mばかり小高くなっている

松延城1 松延城2 松延城空堀

女山神籠石

展望台付近に石塁の跡がある。地元の方の話では、 みかん園の跡ということであるが、道の途中に堀切のような所もあり疑問が残る。
女山神籠石碑 女山神籠石1 女山神籠石・水門

舞鶴城

みやま市(旧高田町)

奈良時代官道が付近を通り、野原庄に狩路駅が置かれた。 その駅長である牡丹長者は竹井に館を構え、舞鶴城を築城したという。 室町時代(応永)柳川城主蒲池久憲が築城した。
またこれとは別に、 平安時代に武智源太春倫が築城し、田尻鑑種が砦を築いたともある。
現在は飯江川をはさんだ城道橋の先に玉水酒造の真向かいにある、金比羅山。 麓は果樹園となっているが、道があり、 山頂は白峰宮・金比羅宮が祀られてある。 台風18号のために若干荒れていたが、山頂を中心に曲輪の跡が見られる。 規模は余り大きくはないものの、熊本方面へ抜ける幹線沿いにあり、 重要な拠点だったと思われる。


田尻飛塚城

みやま市(旧高田町)

田尻氏の祖、大蔵春実が、 天慶の乱の後に恩賞で与えられた当地に下向した時に築いた。 戦国期に鷹尾城に移る。
森山宮以外は果樹園となり当時の面影は掴みにくい。

森山宮 田尻飛塚城1 田尻飛塚城2

三池山城

大牟田市【最寄り駅】JR鹿児島本線・西鉄大牟田線大牟田駅

鎌倉御家人である、三池氏の城。戦国期には大友氏の被官となっていたが、 2度に渡り、肥後の菊池氏に呼応し叛いたが、失敗に終わっている。 鎮実は秀吉の九州平定後は、三潴郡150町で立花氏の与力となり、 三池郡は、高橋統増(立花直次)の領地となった。(『福岡県の城郭』より)
三池山の山頂より少し下った、 三池宮を本曲輪としている。 山頂から一旦下って登り直すと、藪で見にくいが、 堀切が2本ある。 三池宮周辺は後世に入り人の手が入ったのか、いまいち遺構が分からなかった。 縄張り図では畝状竪堀など数本あったようであるが、藪が酷く、見損ねてしまった。
大塔山への縦走路を行くと、竪掘など残っている。 また大塔山の北側へ行くと、230mの無名ピークの前後に堀切らしき遺構が残っている。



谷川城

八女市(旧立花町)

永禄の頃(1558〜70)は、山下城を本拠とする蒲池氏の持ち城で、 天正の頃(1573〜92)は、 猫尾城 城主の黒木氏一族の谷川新三郎が城主であった。(『福岡県の城郭』より)
谷川(こくせん)寺(最左画像)の裏山に遺構が残っている。 境内の西側の駐車場の脇から登り道があり、 やや藪化した道を登るとそこが虎口で、 郭となっている。が、中は藪が甚だしく(左2画像)、北側に石仏が数体あった。 南東の方へ藪をかき分け下ると堀切(左3画像)と土橋(左4画像)があり、主郭(右二画像)の虎口(最右画像)がある。



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