伊豆三島から下向した西牟田氏の約350年間に渡る居城。
15代西牟田家周の時に大友氏に攻められ落城し、
生津城に逃げた。
西牟田流地区だと推定されている。
かつてあったクリークなどは埋められ耕地されているが、
本丸跡と云われる場所には民家が1軒あるものの(撮影を遠慮した)、
周りの耕地が1段低くなっていて、ここだろうと推定される。
その南側には堀であったであろうクリークがある。
少し北側には、西牟田館跡であったという、真行寺がある。
蒲池治久が弟久弘に、ここに代官として治めさせた。
土地改良事業で、この看板付近の様子はかつての面影はないようだ。
ただ、すぐ東側の横溝本村付近は、
クリークなどがおそらくかつてそのままに残っている。
大永年間、長岩城を本拠とする問註所親照の築城。
大友方であったために、秋月氏に攻められ落城された。
現在は、果樹園となっている。西側斜面に石塁が残り、
南斜面は堀切があって、二の丸に繋がっているようだ。
鎌倉時代に三善氏康が築城。問註所氏の元の姓は三善である。
また町野氏も同族。
立石城なのか、はっきりしない。ただ、腰曲輪があって、
さらに4段からなる曲輪が存在する。かなり古い石塁もある。
参考文献にある表記内容と違う点が気掛り。
安山城であるかもしれないし、また別の城跡かもしれない。
大生禅寺の裏の林道をひたすら登りきった所のピーク一帯である。
長谷部氏築城。その後、天正年間、問註所統景の居城となる。
天険に拠った城。入口から登った所が二の丸のようで、その裏手が本丸とのこと。
二の丸跡には、平屋があり、味気ない。両サイドは、奇岩に囲まれ攻めるのに困難。
その前に、ここに辿り着くのも困難を要するだろう。
そのせいで、秋月氏からも攻撃を受けなかったようだ。
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