天正14年(1586)秋月方となった麻生鎮里・統春親子の城で、10月に黒田孝高に落城された。
(福岡県の中近世城館跡IIより)
菅原神社の裏から急斜面を登り、尾根を一旦下り、石仏群を見て、そこから登り返し、ピークから東に尾根を行くと、
64.5mの北の郭に至る。その手前には堀切が1条ある。
この北の郭の北側には堀切が2条あり、東の1条は住宅開発で消滅したようだ。
竪掘は残っていた。69.8mの主郭へかけた細長い尾根上には郭があり、
西側に薄っすらと土塁の跡がある。主郭の南西側と南東側にも堀切が1条ずつあり、南東側は特に深い。
下りは南東側に強引に下り、道路に出たが、登山口はどこなのか良く分からなかった。
麻生近江守の砦だった。
遺物から14世紀後半〜15世紀前半に使用されたと推測されている(福岡県の中近世城館跡IIより)。
一方、『北九州・京築・田川の城』では、南郭を園田城、園田池を挟んだ主郭と北郭を園田浦城と別城としている。
主郭と北郭は住宅開発で消滅し公園化されたが、南郭のみ残存している。
主郭南側の腰郭に竪掘が残る。
宇都宮氏一族の山田氏の本城という。(福岡県の城より)
送電線が主郭に立っており、保線用の道を登るのが容易である。
主郭の西側に2本空堀があり、南側も土塁と2本空堀が残る。
さらに南側へ続く尾根上に堀切2本残っている。
主郭の北側の堀切が一番深いが、藪っており主郭から一気に下るのは躊躇される。
一旦、東側に2本ある空堀の下側まで下りて、迂回して、北側の堀切まで行ける。
さらに北側に土塁と空堀があり、その先は自然地形の平坦地となっているが、
少し行くと土塁と空堀のような跡があったが、遺構かどうかは定かでない。
弘治3年(1557)大友義鎮の命で、田原親宏が秋月方の山田氏退治で落城させ山田安芸守隆朝は山口に逃れたが、
子の満千代丸は首刎ねられた。(福岡県の城郭より)
宇都宮常陸介が城主であった。(福岡県の中近世城館跡III より)
天正15年(1587)山田大膳正輝家は宇都宮鎮房と叛旗を翻し、篭城した。
が、従兄弟の一戸城
主の中間六郎左衛門統種が黒田方に寝返り、油断させて黒田勢を手引きして落城させたという。(福岡県の城より)
櫛狩屋の集落から北側の道を西へ登っていくと、橋の手前に登山口がある。
道なき谷を登り詰めたところが、東の3重堀切となる。
東側には、土橋と堀切があり、その先は自然地形となる。
一方、西側の斜面には石塁の跡が残っている。
南側に横掘が走り、南へと深い畝状竪掘群が残る。
ここを登ると整形された郭となり、西へ行くと井戸跡と思しきくぼ地がある。
西へ下ると堀切があり、2本の土橋があり、北側は石塁で補強されている。
さらに西に行くと櫓台らしき高まりがあり、その下には3重堀切が残っている。
宇都宮一族川底弥次郎武房が築城したという。(福岡県の城)
岡城からの稜線上にある。最高地点である主郭には、テレビ塔が立ち、脇に巨岩がいくつか存在する。
西側に平坦地が広がるが、堀切なども何もない。
宇都宮氏一族如法寺氏、後に川底(城井)氏の居城だった。
天文14年(1545)宇都宮正房により築城され、如法寺の座主が城代を勤めた。(福岡県の城より)
合岩中学校にあったといわれ、遺構はない。中学校の裏の登ったところに、
日熊での戦いで討ち死にした城井弥七郎知房の墓がある。
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