天正年間(1573〜92)は宇留津城主賀来氏靡下の一万田左近の城であったが、
天正14年(1586)宇留津城は黒田孝高、吉川元春らに攻められたともに落城したという。(「福岡県の城」より)
現在、周辺は築城基地と住宅地となってしまっており、竜神祠が残っているだけとなっている。
応永年間(1394-1428)城主大館九郎源盛貞が金辺峠まで大内盛見を出迎え歓待したといわれる。(福岡県の城より)
その後、宇都宮氏配下の遠藤孫六郎房勝、同石見守房司、天正年間には末松加賀守房快が城主であった。(福岡県の中近世城館跡IIIより)
茶臼山(標高415m)の山頂付近に位置する。
金辺峠から登って行くと、切岸などが散見されだし、最後に急斜面を登ると山頂である。
郭は南東側の尾根にも展開される。北西方向にもあるようだが、未確認。
一方新城方向の尾根上には積極的に作られていない。
歴史的な詳細は不明。すぐ北側1kmの茶臼山城との関連性があるのかないのか。
新城山頂(403.8m)にあり、茶臼山から縦走してくると堀切がある。東側にもそれよりは低いが、
堀切が残る。
応永4年(1397)に大内義弘が少弐氏を破った後に戦わずして落城させた。(福岡県の中近世城館跡IIIより)
牛斬山山頂北側(A)に堀切が1本ある。
北へ行き三叉路となっている「岩屋別れ」がBで山頂側に堀切がよく残っている。
牛斬峠方向へ少し行った小山がCで牛斬峠方向に浅い堀切が残る。
しばらく南下した牛斬峠にDがあり、岩屋別れ側と五徳峠側にそれぞれ堀切が残っている。
牛斬山に至っては3,4回登ったことのある山であったが、全く城跡という認識がなかった。
後世になって改変されたのか、遺構は言われてみれば確かにという印象が残る。
藤原純友の築城以来、平氏、緒方氏、香春氏、中尾氏、少弐氏、千手氏、原田氏と続き、
天正年間には高橋鑑種、元種が在城した。が、天正14年(1586)に秀吉の九州征伐で黒田・小早川勢に攻められ、落城した。
(福岡県の中近世城館跡IIIより)
香春岳の一の岳にあった遺構は既にない。二の岳にかけての遺構も立ち入り禁止区域で見ることは出来ない。
二の岳山頂周辺に遺構があるらしいが、登り石垣自体も後世の物にも見え、判断が難しかった。
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