豊前(大分)・豊後6



馬台城小友田城長岩城一ツ戸城富来城

馬台城


中津市(旧耶馬渓町)

築城時期は定かでない。 大内氏が豊前守護職であった時のその配下の城だった。 弘治3年(1557)3月、長岩城主の野仲鎮兼は一ツ戸城主中間弾正忠と共に攻め、 城主豊田対馬守は自害、落城した。(大系より)
尾川内から林道に入り、民家を過ぎてしばらく行くと、谷に入っていけそうな場所があり(上段中央画像)、 ここから左側に入り、谷を詰めていく。 岩がごろごろしており、登って行くと、上段右端画像のような炭焼き?の跡がある。 城址へはここからそのまま谷を詰めて、右へ行けば良かったのだが、 左の尾根筋を選択した。かなり急斜面を登っていくと、 竪堀なのか自然の谷なのか、2条竪堀らしき跡があった(中段左端画像)。 さらに登ると自然岩が立ちはだかる。 登りやすいところを探して登ると、山頂付近に到達した。 山頂部は木々が伐採されて、網が張られていたが、しばらく管理されていないようで、 その網も破れたいた(中段左2画像)。 西側に回り込むと、城址であることを示す札があり(中段左3画像)、ほっとした。
主郭の西側は林の中で、山頂部がやや高まりにある(中段左4画像)。また、石塁の跡なのか、 石が残っていた(中段右端画像)。 北側へ下ると明確な堀切はないが、尾根沿いに北の郭に至る。 いったん峠のような所に下り、すぐに2段の郭があり、 こちらは主郭と違い、その後人の手が入っていないようで、雰囲気が良く残っている(下段左1,2画像)。 峠に戻るとその東側に水場なのか後世の物がはっきりしない、大きく削られた箇所があり、 水がたまっていた。 そのまま東側へ谷を下って行くと、かつて大手門として使用されたのか、 岩で挟まれた所へ出る(下段右端画像)。 そこから素直に谷を下れば入口は見えてくる。




小友田城


中津市(旧耶馬渓町)

野仲氏の家臣小友田氏の居城。 長岩城での籠城軍の中に、小友田佐介の名前が残っている。(大系より)
東側は、三尾母川が流れ、南側はサイクリングロードがあり、断崖となっており、 城址へは北側の道路から入って行ける。 東西に伸びており、竹林と化しているが、それぞれ郭らしい雰囲気が残っている。 西側は北側に土塁らしい跡が残っている。土塁というよりも区切りのようにも見える(左3,4画像)。 一方、東側は明確に切岸があるが、こちらの方は土塁のようなものは残っていない(右1,2画像)。


長岩城


中津市(旧耶馬渓町)

建久9年(1198)宇都宮信房の弟、野仲重房が築城したと伝わる。 南北朝では北朝方として、宮方を攻め、 永正5年(1508)興道の時、将軍足利義稙を奉じる大内義興に従い上洛し、 船岡山合戦に従軍した。 大内氏が滅ぶと、大友氏の勢力が伸び、弘治2年(1556)大友勢3千に攻められ、 重兼は籠城し、14日の戦いの後羅漢寺の玄承和尚の仲介の末に降伏したが、大友義鎮(宗麟)に許され、鎮の字を賜った。 しかし、大友氏が耳川で島津氏に敗れ、勢力が衰えると、 鎮兼は下毛郡の大部分を制圧した。 が、宇都宮氏に従い、 天正16年(1588)黒田長政3500余騎に攻められ、3日3晩の戦いの末4月8日三之城戸を破られ自害し落城し、廃城となった。 (大系・現地配布資料より)
津民川を渡るとすぐに一之城戸がある。 所在が分からずにいたのを根石が発見され、石塁は復元されている(最上段左2画像)。 なべもと谷を渓流が流れ、東西の山に渡って、遺構が残っている。 三日月塹壕の竪堀を過ぎると、二之城戸で、渓流の両サイドに石塁が並んでいる(最上段左3画像)。 しばらく石のごろごろと転がる渓流を登ると、三之城戸である(最上段左4画像)。 主郭のある左岸側にしか石塁はないが、斜面に沿って上部まで伸びる。 ここを登って行くと、石塁に囲まれた東之台で、やや広い郭となっている(最上段左5)。 ここから最後部にある主郭にかけての石塁とそれを挟む竪堀は圧巻である(最上段左6)。 主郭は2段からなり、やはりここも石塁で囲まれている。また礎石も残る(2段目左2)。 尾根を北側へ下ると、堀切が1条あり(2段目左3)、 石塁で挟まれた通路(2段目左4)を過ぎると、西之台となる(2段目左5)。 西之台から水場へ下ると堀切が2条あり(2段目左6)、さらに1条を今は下へ下るようになっている。 このタイプの堀切はここだけしかなく、やや違和感を覚える。
いったん、三之城戸まで下り、対岸に渡り、少し登ると、 陣屋跡と呼ばれる、割と開けた場所となる(3段目最左)。ただフラットな地形ではない。 ここも石塁が南側に伸びており、最後部には砲座跡がある(3段目左2)。 陣屋跡から背後に伸びる道を行くと、 はしごがあり、上の痩せた尾根に出る(3段目左3)。 この尾根から東へ少し行くと、石積櫓で、銃眼という説もある、穴がある(3段目左4,5)。 一方、弓形砲座への尾根を少し行ってみると、ここも石塁があり(3段目左6)、 さらに痩せた尾根を下ってみる。小雨が断続的に降っているものの、 滑りそうにはなかったが、落ちたら、生還は出来そうにない道である。 弓形砲座と書かれた標識のある地点までやや恐い思いをして下ってみたが、 まだ行けそうではあったが、無理をせずここで引き返すことにした(3段目最右)。 はしごを下り、陣屋を北へ行くと、洞窟があり、石塁がある。 また渓流側にはここにも抜かりなく石塁と砲座がある。 さらに尾根を北へ行くと、古城ヶ鼻という馬場跡に至る(最下段最左)。 現在は多数アンテナが立っている。 築城当初はこちらが主郭なのだったのだろうか。
いったん津民川を渡って入口まで戻り、県道を下って行くと林道入り口があり、 ここから割と安全に案内標識もあって弓形砲座に行けた。 しばらく登ると、石塁があり、 痩せた尾根を登って行くと、弓形砲座であった(最下段2,3)。余り広くなく撮影が難しい。 さきほど石積櫓から下った場所はすぐそこだった。





一ツ戸城


中津市(旧耶馬渓町)

友杉民部が建久3年(1192)に築城したとされ、友杉氏は後に、中間氏、大江氏、一戸氏を称したという。 天正15年(1587)黒田勘兵衛が豊前に入ると、城主中間統胤はこれに従った。 慶長5年(1600)関ヶ原の戦いの後に、黒田氏は筑前に移封となるに従い、 中間氏は筑前松尾城へ移った。 その後、豊前に入った細川忠興の出城となり、 一国一城令で廃城になるまで使われた。(現地説明板より)
切り立った山の山頂周辺に遺構があり、北側から獣除けの柵から中へ入り、 標識に従えば主郭まで行ける。 ただ、2015年5月現在、登山口から最近ブルで無理やり道を作っているように見え、 反対派がいるのだろうか、道を塞ぐように倒木が多く放置されていた。 雰囲気のないブル道をしばらく登ると、 尾根道に出て、岩場を東へ進むと、瓦の落ちている郭に至る。 さらに東へ南側から迂回して進むと主郭の入口に至る。 石段を登ると主郭で(左1,2画像)、郭は東へさらに続く(左3画像)。北側に石塁を伴う虎口が残り(左4画像)、 その周辺は石塁で強化されている(左5画像)。 虎口から下れるか探してみたが急斜面でよく分らない。 北斜面を西へ行くと、竪堀らしい跡が残っている(最右画像)。


富来城


国東市(旧富来町)

建久7年(1196)大友氏の下向に同行した、 鎌倉の御家人である永井実貞の孫の忠文が築城し入ったという。 また9代忠茂の時に築城したともいう。 もしくは大友氏4代親時の庶子である忠政が富来氏を称して、 正安年間(1299〜1302)に築城したともいう。 9代忠茂は足利尊氏に随従し、助けている。 その後大友氏の大老として重要な地位にあったが、 耳川の戦いの時に、18代実直がその子実信と討ち死に、 19代鎮久は朝鮮の役で討ち死に、20代統長は大友氏除封とともに日向へ流浪し、 その子長利は佐賀関で自刃し滅亡した。 その後は秀吉により、垣見和泉守家純(一直?)が城主となった。 慶長5年(1600)9月22日に黒田官兵衛本隊に攻められるも耐え、 家純が関ヶ原の戦いで大垣城で切腹(討死?)と伝わり、 城代の垣見理右衛門は黒田官兵衛の寛大な処置の前に10月2日開城に至った。 黒田家臣の上原新左衛門を城番とした。 その後、細川忠興が父幽斎の隠居城として修復した。 元和元年(1615)一国一城令で廃城となった。 (大系・現地資料)
北側と東側が海で港は東側にあった。 現在は主郭があった城山だけが残っているが、区画など当時のままに残っているようだ。 主郭南側は水掘だったらしいが、大系では湿地帯ともあるが現在は家などが建っている。 石塁が残る。また西側には空堀の跡がそのまま道路になったらしい跡や、 富来氏の菩提寺の万弘寺がある。




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