天文17年(1548)に竹谷松平初代の松平守家が築城したという。
本曲輪は蜜柑畑(左画像)、その東側は竹薮で遺構は切岸くらいしか(右画像)、
よく確認できなかったが、『東三河の史跡めぐり』によれば、
南側に深い空堀と土塁があったとのこと。
住宅地と面しており、臆して探索できず、残念。
(東三河の史跡めぐりより)
平安時代末期に形原師光が築城したと伝わる。
長享年間(1487~89)に松平信光の4男与副がここに移り、
形原松平を称した。その後、今川氏に従うこともあったが、
義元死後、家康に従い、
天正18年(1590)家信の時に上総国五井に移り、
慶長6年(1601)再び形原に戻ったが、
元和5年(1619)摂津国高槻へ
(大系では、元和4年(1618)に安房に)移封となり廃城となった。
当時は海に突き出た地であったようであるが、
現在は海岸も埋められ、住宅地や畑となり、
東古城である稲荷社のある部分だけとなっている。
北古城や南古城という字だけは残っている。
承久年間(1219~22)に戦功により、
足利義氏が三河守護として築城したという説など諸説があるが定かでない。
永禄3年(1560)頃は今川氏に従う牛久保城主の牧野成定が入っていたが、
永禄4年(1561)に徳川氏家臣の酒井正親と荒川義広に攻められ落城した。
天正18年(1590)には、田中吉政が入り、
慶長5年(1600)以降は譜代である、本多、松平(大給)、本多、太田、
井伊、増山、土井、三浦、と続き、明和元年(1764)に松平(大給)が入り、
以後明治維新まで存続した。
現在は歴史公園となり、本丸丑寅櫓が、二の丸表門である、
鍮石門が再建されている。
江戸時代のいつ頃か、天守閣が本丸から二の丸に移されている。
「鎌倉時代末期より江戸時代初期にかけての城址で、
中条氏代々の居城のち三宅氏の居城となる」
(現地石碑より)
現在は住宅地となり、名鉄三河線の線路下が、
竹薮となっており、曲輪や切岸、空堀らしい跡が残っている(左、中央画像)。
堀の石も河原の自然石を使っているらしく丸みをおびた石が目立った(右画像)。
当時の物からどうかは定かでない。
内藤金一郎が上野国安中
より移封され築城にとりかかったが、
明和4年(1767)7月12日の矢作川の大洪水で桜城の築城工事を断念せざるをえなくなり、
天明2年(1782)に完成した。
現在、隅櫓が再建されている。
(城郭と城下町、現地案内板より)
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