尾張・三河6



岩略寺城二連木城赤岩城田原城伊奈城

岩略寺城(長沢山城)


豊川市(旧音羽町)【最寄り駅】名鉄名古屋本線名電長沢駅

長禄2年(1458)長沢氏の居城であったが、松平信光により落城した。 落城した城が、長沢城なのか、 この岩略寺城なのかは定かでないらしい。 その後は、今川氏と松平氏の争点となっている。
愛知県下でも残存状況の良さでは抜群だという。 杉林の林道を行くと石積みの階段状のエリアから登って行く。 ここから石塁で谷側を補強した道が城址まで続く(画像左端)。 本丸直下の曲輪に出る。井戸を2つ見て、本郭となる。 本郭は二の曲輪と分られてある。 西側と南側が土塁に囲まれ、東側に内枡形の虎口がある(左2画像)。 ここを下ると、東郭があり、さらに下へ郭が続く(右2画像)。 その下にある堀切は薮で確認しなかった。 東郭の北にも郭群があり、虎口があり、麓へ続いているらしい。 本丸の北側に、三日月堀という標識が立っている空堀があるが、 構造上三日月になっているだけのように思われる(右端画像)。 南側にも堀切があったようだが、林道などで跡は残っていないようだ。

登り道 内枡形虎口 東郭 三日月堀

二連木城


豊橋市【最寄り駅】豊橋鉄道東田線東田電停

明応2年(1493)田原の戸田宗光が築城した。 天正3年(1575)長篠の戦いの前哨戦で武田勝頼に攻められた。
現在は大口公園となっており、付近は住宅地となっている。 遺構として土塁が残っており(左画像)、北側はちょっとした崖となっている。


赤岩城


豊橋市【最寄り駅】豊橋鉄道東田線赤岩口電停

戸田氏の居城らしいがはっきりしない。 船形山城、鎌倉街道への押さえ程度の砦であったようだ。
現在、赤岩寺の裏手の山の一部分に曲輪らしい構造と、 場違い的な、大規模な大堀切が残っている。

大堀切1 大堀切2

田原城


田原市【最寄り駅】豊橋鉄道渥美線三河田原駅

文明12年(1480)戸田宗光により築城された。 が、天文16年(1547)、4代宗光、5代尭光の時、 今川氏へと護送中の松平竹千代を強奪、織田氏へ送ったことから、 今川氏の恨みを買い、攻められ、落城し、戸田氏は滅びた。 永禄8年(1565)家康の家臣、 本多広孝の攻略により徳川氏の支配するところとなった。 天正18年(1590)家康が関東へ領地替えとなると、 吉田城主池田輝政の家臣伊木氏が城主となった。 関ケ原の戦い後は、戸田尊次が城主となり、寛文4年(1664) から幕末まで三宅氏の居城となった。
現在は本丸、二の丸、三の丸が残り、桜門と水堀が残る。 二の丸は博物館、三の丸は護国神社となっていて、 その間に深い空堀が残っている。


伊奈城


小坂井町【最寄り駅】JR東海道本線西小坂井駅

享徳年間(1452〜55)本多定忠が築城した。 永禄年間(1558〜70)、6代の忠俊の時に大塚城主岩瀬氏に攻められたが、これを防いだ。 天正18年(1590)家康の関東移動に伴い、8代康俊の時に下総小篠に移封となり、 廃城になった。
享禄2年(1529)5代正忠の時に松平清康の吉田城攻めで活躍し、 さらに戸田氏の田原城を開城させた後、ここに祝宴で寄った清康は、 花ヶ池の水葵に喜び、葵を家紋としたという。
現在は、城址公園となり、土塁が残るだけである。 北側を佐脇川が流れる、 元々沼地の平城だったようで、田んぼとなってしまったようである。 堀から逆茂木が発掘されて再現してあるとのことだったが、 濁ってよく分らなかった。
(現地案内板、大系より)

土塁と石碑 遠景

前へ 次へ

このページの著作権は、作者に帰属します。 画像などの2次利用は御遠慮下さい。


戻る