長禄2年(1458)長沢氏の居城であったが、松平信光により落城した。
落城した城が、長沢城なのか、
この岩略寺城なのかは定かでないらしい。
その後は、今川氏と松平氏の争点となっている。
愛知県下でも残存状況の良さでは抜群だという。
杉林の林道を行くと石積みの階段状のエリアから登って行く。
ここから石塁で谷側を補強した道が城址まで続く(画像左端)。
本丸直下の曲輪に出る。井戸を2つ見て、本郭となる。
本郭は二の曲輪と分られてある。
西側と南側が土塁に囲まれ、東側に内枡形の虎口がある(左2画像)。
ここを下ると、東郭があり、さらに下へ郭が続く(右2画像)。
その下にある堀切は薮で確認しなかった。
東郭の北にも郭群があり、虎口があり、麓へ続いているらしい。
本丸の北側に、三日月堀という標識が立っている空堀があるが、
構造上三日月になっているだけのように思われる(右端画像)。
南側にも堀切があったようだが、林道などで跡は残っていないようだ。
明応2年(1493)田原の戸田宗光が築城した。
天正3年(1575)長篠の戦いの前哨戦で武田勝頼に攻められた。
現在は大口公園となっており、付近は住宅地となっている。
遺構として土塁が残っており(左画像)、北側はちょっとした崖となっている。
戸田氏の居城らしいがはっきりしない。
船形山城、鎌倉街道への押さえ程度の砦であったようだ。
現在、赤岩寺の裏手の山の一部分に曲輪らしい構造と、
場違い的な、大規模な大堀切が残っている。
文明12年(1480)戸田宗光により築城された。
が、天文16年(1547)、4代宗光、5代尭光の時、
今川氏へと護送中の松平竹千代を強奪、織田氏へ送ったことから、
今川氏の恨みを買い、攻められ、落城し、戸田氏は滅びた。
永禄8年(1565)家康の家臣、
本多広孝の攻略により徳川氏の支配するところとなった。
天正18年(1590)家康が関東へ領地替えとなると、
吉田城主池田輝政の家臣伊木氏が城主となった。
関ケ原の戦い後は、戸田尊次が城主となり、寛文4年(1664)
から幕末まで三宅氏の居城となった。
現在は本丸、二の丸、三の丸が残り、桜門と水堀が残る。
二の丸は博物館、三の丸は護国神社となっていて、
その間に深い空堀が残っている。
享徳年間(1452〜55)本多定忠が築城した。
永禄年間(1558〜70)、6代の忠俊の時に大塚城主岩瀬氏に攻められたが、これを防いだ。
天正18年(1590)家康の関東移動に伴い、8代康俊の時に下総小篠に移封となり、
廃城になった。
享禄2年(1529)5代正忠の時に松平清康の吉田城攻めで活躍し、
さらに戸田氏の田原城を開城させた後、ここに祝宴で寄った清康は、
花ヶ池の水葵に喜び、葵を家紋としたという。
現在は、城址公園となり、土塁が残るだけである。
北側を佐脇川が流れる、
元々沼地の平城だったようで、田んぼとなってしまったようである。
堀から逆茂木が発掘されて再現してあるとのことだったが、
濁ってよく分らなかった。
(現地案内板、大系より)
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