嘉吉年間(1441年頃)に依田忠政により築城されたと推測される。
その後、新田信純が城主となり、上杉政虎の侵攻の際に、
従わず武田氏の下に走った。
永禄10年(1567)に信純は後閑城に入り、信純の没後、
次男後閑重政、三男上条信久が北条氏の滅亡と運命を共にし、
廃城となった。
現在は城址公園として桜が植えられて遺構を損なわない程度に整備されており、
当日は桜祭でやや城址にしては人が多かった。
後閑川の北側の小山を中心に東、西、
北に斜面を利用して曲輪を展開している。
本丸と北曲輪への堀切(右端画像)、南側にある二の丸への空堀(左端画像)は深い。
永禄2年(1559)安中忠政が築城したという。
その後、武田信玄の侵攻に遭い、当時城主であった忠政の嫡男忠成は降伏し、
景繁と名を改め、天正3年(1575)長篠の戦いで討死し廃城となった。
慶長19年(1596)井伊直勝が築城し直し、その後、
2万石で堀田氏、板倉氏、内藤氏、
さらに板倉氏となり明治維新を迎えた。
現在は、北に九十九川、南に碓井川に挟まれた安中市街地に位置し、
体育館横に画像のような標識が佇んでいるだけである。
すぐ北側は崖となり、6〜7m下を国道が走っている。
ただし、町は中山道を含め当時の面影を残し、
武家長屋が残っている。
武田信玄の命により、真田幸隆の弟常田俊綱(隆永)を城主としたが、
永禄6年(1563)斎藤憲広が逆襲して落城させた。
すると武田軍も逆襲し、落城させ湯本善大夫が城主となった。
天正3年(1575)長篠の戦いで戦死後は、甥の三郎右衛門が継いだ。
細い尾根上に東から物見郭、箱岩郭(右端画像)、秋葉山出丸、本郭と続く。
箱岩郭は細い断崖の上にあり、現在でも鎖場となって直登は厳しい。
本郭は南北2つに堀切で分れ、西に下り、腰郭が数段続く。
応永12年(1405)斎藤憲行が築城した。
その後、憲広まで続いた。
吾妻郡西部の領地争いで武田氏と敵対することになり、
永禄5年(1562)真田・甘利軍に攻められ落城した。
翌年、憲広は上杉輝虎をバックに再び攻め、
長野原城を落とした。が、これも束の間、再び真田氏に攻められ、
落城した。憲広は嫡子憲宗と越後に逃れた。
その後、斎藤氏は滅び、真田幸隆は吾妻郡代となり、
海野幸光・輝幸兄弟が岩櫃城代となった。
天正17年(1589)頃は沼田の北条氏を警戒し、矢沢頼綱が城代となっていた。
江戸時代に入り、真田信幸の持城となったが、
元和2年(1616)、家康を憚り、破城した。
急峻な岩峰岩櫃山の中腹に位置する。
本丸は広く(中央画像)、山側に枡形虎口がある(右端画像)。
南東側に空堀を設け(左端画像)、北東に二の丸がある。
また本丸の南東側の植林地帯は段々状になっており、屋敷跡がある。
本丸背後の山側にも平坦地があり詰の城だったか。
本丸北西部は志摩屋敷と呼ばれ、比較的広い区画となっている。
一方二の丸から長い竪堀を下った辺りは中城と呼ばれているが、薮だらけだった。
空堀を越えて下ると現在登山口である、城の口に至る。
ここから東に天狗の丸があり、
さらに東に平川戸と呼ばれる殷賑の町があったようだが、
畑などとなっている。
慶長6年(1601)秋元長朝が蒼海城から移り、築城し、慶長15年に完成した。
寛永18年(1631)泰朝の時に、甲斐の谷村へ移封となり、廃城となった。
現在は、遠見山古墳は畑や住宅地の中に残るものの、消失したようである。
(短い時間だったので未確認。)
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