寛延2年(1749)内藤政苗が築城にとりかかったが、
矢作川の大洪水に断念し、
童子山の七州城へと場所を替えた。
現在は桜城公園となり、隅櫓の石垣が残っている。
三宅氏時代の館跡に桜が植えられていたことから、桜城と呼ばれている。
松原広長の居城であった。
現在八王子神社となり、
裏手にある池が水堀で土塁らしい跡も残してあると書かれてあるが、
やや味気ない。
天文3年(1534)[11年(1542)]織田信秀が築城し、それまでの居城である、那古野城を信長に譲った。
天文17年(1548)に信秀は末森城に移り、廃城となった。(大系・[]は現地説明板より)
現在は東本願寺東別院の境内となり南東の隅に石碑が残るだけである。
かつては、東西140m、南北100mの平城で四方に二重の堀で囲まれていたとのことである。
文明年間(1469〜87)に鈴木重時により築城された。 鈴木氏は松平氏と対抗し戦った。永禄9年(1566)佐久間信盛により落城され、 重教は矢並城に逃れ、その後駿河の今川氏を頼った。 その後は、岡崎の管理下で本多氏や田中吉政の支配下であった。 慶長15年(1610)渡辺高綱が入り、代々渡辺家が続いた。(大系より) 現在は、矢作川の東岸、守綱神社背後の北側に陣屋時代の遺構が良く残っている。 西側の土塁や堀は、鈴木氏時代の物であるという。 当時の建物の場所が、ブロックで提示してある。
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