室町中期、和田親平による築城。その後、松平氏のものとなり、
岡崎が本城となった後、今川氏、織田氏と攻防が続いた。
桶狭間の戦い後は廃城となったとあるが、
小牧・長久手の戦いで徳川氏によって改修された説がある。
現在は博物館・公民館を含めて歴史公園となっている。
本丸は寺院に二の丸は神社になっている。
浮き城であったらしく、本丸・二の丸は台地状になっている。
文明元年(1469)織田広近が築城し城主となった。
天文6年(1537)織田信康が木曽川沿いの現在の犬山城
の位置に移したので廃城となった。
現在は愛宕神社があり、本殿がかつて本丸があったという高台にある。
梶原景時の孫、景親が建仁元年(1201)築城した。
17代後、景義の時、信長と共に本能寺にて討ち死にした。
天正12年(1584)小牧・長久手の戦いの際に、秀吉方の堀尾吉晴と山内一豊が入った。
城址は私有地らしく石碑のある土塁の一部にしか入れないが、
完全に薮化していて入る気も失せる。
すぐ横に梶原家の菩提寺・興禅寺がある。
永正年間(1504〜1521)織田久長が築城したという。
永禄元年(1558)には犬山城主織田信清の所領であったが、
信長に攻められ、信清は逃れ、坂井政尚が入った。その後、梶川高盛が城主となった。
信長公記には天文18年(1549)『正月十七日、上郡犬山・楽田より人数を出し』
とあり、その頃の城主は筑後守寛貞であったとしている。
また、天正12年(1584)小牧・長久手の戦いの際には、
堀秀政が入ったが、犬山城にいた秀吉も陣を進めてここまで来た。
戦いの後、廃城となった。
現在、城址は小学校などになり、石碑がある部分のみ微高地となっている。
天正12年(1584)小牧・長久手の戦いの際に、稲葉一鉄がここを守った。
慶長15年(1610)名古屋城築城に際し、石垣用の岩をここより切り出し用いた。
比高もさほどないが、遺構なのか、堀の跡らしき深い溝(中央画像)がある。
現在は熊野社などがある。
天正12年(1584)小牧・長久手の戦いの際に、
堀長政、長岡忠興、蒲生氏郷、加藤光泰が守った。
三ツ山古墳を利用した砦で、古墳も2基は道路により消滅した。
遺構はこの古墳くらい。
天正12年(1584)小牧・長久手の戦いの際に、
日根野弘就兄弟が守った。徳川軍に攻められ被害を出した。
現在は祠と石碑があるだけである。
永禄6年(1563)、当初から小牧山に移すつもりだったようだが、
始めは二の宮山に、清須から本城を移すと言って予想通り反対された後に、
小牧山に移した。
信長公記には『奇特なる御巧これあり』とある。
以後永禄10年(1567)に、岐阜に本城を移すまでここにいた。
天正12年(1584)小牧・長久手の戦いの際に、家康の本陣となり、改修された。
その後江戸時代は、信長の頃から小牧山に住んでいた江崎家の管理するところとなった。
立ち入りがままならなかったようで、よく保存されて来た。
公園化された際に新しく道路などが作られ遺構が消えてしまっている部分もある。
信長時代には、南斜面にかけて屋敷を作っていたようで、
安土城の形式の大本だったのだろうか。資料館のある辺りが本丸で、
石塁も一部残っている(左2画像)。
西側に深い竪堀(左3画像)が南に下り東に折れている。
南斜面には何段か帯曲輪が残っている。
小牧・長久手の戦いの際の家康軍が改修した時の土塁が小牧山を囲み、
帯曲輪(右端画像)がその内側にあり、芝生のある公園となっている。
織田与四郎の居城であったが、信長が小牧山に本城を移した際には、
丹羽長秀がここに屋敷を構えた。
天正12年(1584)小牧・長久手の戦いの際には、
徳川方の砦であった。
江戸時代には、小牧御殿の庭園の一部となっていた。
昭和20年代まで堀や土塁、天守の跡があったらしい。
石碑しかない。
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