長禄3年(1459)織田広近により築城された。
信長公記によれば、永禄4年(1561)『六月下旬、於久地へ御手遣。』
とあり、家臣の岩室長門がこめかみを突かれて戦死し、信長に惜しまれている。
当時の城主は、犬山の家老の中嶋豊後守で、
その後、信長が清須から小牧山へ本城を移したので、この城から、
犬山城へと移っているが、丹羽長秀の取りなしで降伏している。
天正12年(1584)の小牧・長久手の戦いの際、秀吉方の筒井定次、伊東祐時が修復後に入っている。
現在、大口北小学校の西側に位置し、物見櫓(左端画像)が建てられて、門(中央画像)なども復元されている。
遺構としては、小学校のすぐ横の土塁(右端画像)などであろうか。
応仁(1467〜1469年)・文明年間(1469〜87年)の頃、
生駒氏は大和国生駒から前野家との縁を頼りに、移住したという。
その後、馬借で財を蓄え、三代家宗の娘・吉乃(信忠、信雄、五徳の母)が信長の側室になった。
天正12年(1584)の小牧・長久手の戦いの際、家康・信雄軍は清須城からここへ進出し、
その後、小牧山へと陣を進めた。
明治維新後に火災に遭ったらしく、建物自体も存在しない。
また広大な館跡は、現在は田畑や民家、保育園となり、かつての面影はない。
すぐ西側にある、龍神社は信雄と縁が深い。
真清田神社の神官関十郎左衛門が築城した。
その息子、小十郎長安は信長や秀吉に仕え、天正12年(1584)長久手の戦いで池田恒興らとともに戦死した。
天正18年(1590)廃城になった。
現在三菱東京UFJ銀行一宮支店の前に石碑が立つのみである。
明応年間(1492〜1501)に五藤光秋'五藤源太左衛門光正とも)が屋敷を構え、
その後、岩倉城主織田信安の家臣山内但馬守盛豊が築城し城代となった。
弘治3年(1557)長男十郎とともに夜討ちに遭い、戦死した。
その後、織田信清の弟、勘解由尉廣良が城主となり、討ち死に後、
永禄5年(1574)和田新助が城主となった。
長島の一向一揆で戦死後、天正2年(1574)弟の八郎が城主となった。
天正10年(1582)尾張の領主となった織田信雄の家臣沢井左衛門尉雄重が城主となった。
天正18年(1590)北条征伐の際に一柳伊豆守直末戦死後、弟一柳監物直盛が跡を嗣ぎ、
3万5千石で城主となった。
関ケ原後、東軍に属した直盛は伊勢神戸に5万石で転封となり、
尾張に入った、松平忠吉の家臣冨永丹波守忠兼が城代として、
慶長14年(1609)まで確認されている。その後廃城となったのであろう。
現在、黒田小学校の横に、石碑があり、
山内一豊の生誕の地として狭いながら立派に公園化されている。
長沢四郎が城主であったが、松平信光が落城させ、その子、親則が入った。
その後、今川氏の持城となり、桶狭間の戦い後は家康の持城となった。
武田信玄の南下の際に攻撃に遭った。
現在は、国道1号線に分断され、北側は住宅地となっており、
標識が立っているだけである。
南側にも社があるだけとなっている。
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