蜂須賀小六正勝の本拠。
現在は蓮華寺となっている。境内が城跡と考えられる。
境内にある蜂須賀山(約11m。2等三角点がある。)
は植生が珍しいこともあって保護されている。
菅沼氏が築城し、その後奥平氏。
武田氏と徳川氏に付いたり離れたりしていた奥平氏が徳川氏に付くと、
武田氏の三河進出に伴い、長篠城は包囲された。
そこで鳥居強右衛門は長篠城を抜け出し、
織田・徳川の援軍を求めたまでは良かったが、
帰城中に武田軍に掴まった。
武田軍は城で守る者に「援軍は来ない」と言えば助けるとして、
対岸に立たされた鳥居強右衛門は「援軍はすぐ来る」と言ったので、磔刑にされた。
その後、
長篠城よりも西にある設楽原で織田・徳川連合軍と武田軍との戦いが行われ、
武田氏の惨々たる敗北に終わった。
奥平信昌(貞昌)は長篠城を廃城にして、新城に築城した。
その後、菅沼氏が入った。
現在は新城小学校になっている。その裏は豊川で天然の濠になっている。
菅沼定盈の籠る野田城を上洛をねらう武田信玄らの軍勢が囲んだ。
なかなか落城しないのを見て、金掘衆を使って井戸の水を断つことに成功し、
家康の援軍の来る前に開城することになった。
しかし、信玄は病気(ろうがい)が悪化し、ここから甲斐に引き返すことになった。
また別に、笛の音に誘われて鉄砲で狙撃された伝説もある。
現在は、本丸、二の丸、三の丸、堀切が残る。規模は余り大きくはない。
織田信秀が古渡城から移り本城とした。
その後、信秀はここで病死し、信行がここを継いだ。
が、信長に負け、清洲に呼ばれ謀殺された。
現在は、城山八幡宮となっていて、堀の跡が残る。
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