甲斐源氏清光の子、信義がここに居館を構え、武田太郎と名乗った。
治承4年(1180)以仁王の令旨を奉じて平家討滅の兵を起こし、頼朝を助け、
駿河守護に任じられた。
が、その軍事力の増大さを警戒され、子の一条忠頼は謀殺され、
文治2年(1186)失意のうちに世を去った。
(現地案内板・大系より)
民家の中にあり、土塁の跡があるとのことであるが、
見付けられなかった。
武田信義の要害城(詰の城?)であったという。
その後、一条氏の領地となり、一条氏は武川衆として発展した。
一条氏は姓を青木と代え、武田氏に従った。
天正10年(1582)天正壬午の乱の際に武川衆は徳川氏に属いており、
その時に現在の形式に修築された可能性も推測されている。(大系より)
武田八幡神社の裏手から八幡沢川を渡って行き、熊除けのフェンスを開けて入る。
熊がいそうなくらい人けがなく実に気味悪い。
登って行くと堀切が2条あり(左端画像)、土橋(中央画像)を渡って、城域へと入る。
土塁により囲まれ、中心にある主郭はさらに土塁で囲まれる。
南側に馬出状の2の郭がある。
南西への下る尾根にかけて堀切2条あったようだが、
長時間いるのが薄気味悪く、確認しなかった。
2の郭から虎口(右画像)を経て、南側へと下って行くと、名前の由来である白山権現社がある。
この白山城の裏手にある山にも遺構があると標識に書かれてあった。
横山権守隆兼の三男三郎左ヱ門忠重が、
康治年中(1142〜44)に都留郡古郡郷の別当大夫になり、古郡姓を名乗った。
建暦3年(1211〜13)三代目保忠の時、和田義盛を助け、北条義時方と戦い、
敗れ、滅亡した。
その後、武田氏の家臣の加藤氏の居城となった。
天正10年(1582)景忠と長男信景は主君勝頼救援のために
一族をあげて西多摩郡瑞穂町箱根ヶ崎に差しかかった時に、
北条軍に囲まれ戦死したといわれる。
現在は稲荷神社となり、遺構は残っていない。
歴史的背景は不明。
館跡は正法寺の境内となっている。墓地の横に土塁が残る(右画像)。
建保元年(1213)古郡氏が和田義盛の乱に同調して滅んだ後、
鎌田兵衛尉(為成とも)が福地郷を授かった。
しかし歴史的な背景はほとんど不明である。
諏訪神社になっており、遺構はない。
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