信虎の弟、勝沼次郎五郎信友の館であった。
天文4年(1535)に北条氏綱との戦いに戦死し、
嫡子丹波守信元が嗣ぎ、相次ぐ戦いに出陣した。
が、永禄3年(1560)逆心の文を見つけられ成敗され、断絶した。
現在は、国指定の遺跡として保存されている。
北側と東側(左画像)に土塁・空堀が残り、北側には2重の空堀となっている。
館内は発掘調査に基づいてそれぞれの遺構がどこにあったか、
判明している(右画像)。
夏場だったためか薮化している所もあった。
古屋氏の屋敷跡または御蔵との説があるが、はっきりしない。
現在は北側(左画像・中央画像)と西側(中央画像・右画像)、東側の一部に土塁が残る。
北側と西側の土塁の外には空堀も残る。
また現在住居もあり、後世に入り、改変されたと見られる。
武田時代にも烽火台のような施設があったと推測される。
天正10年(1582)本能寺の変後に甲斐領主となっていた河尻鎮吉(秀隆)も殺された後、
徳川氏と北条氏とで甲斐をめぐって争いとなった(天正壬午の乱)。
旧小山田氏の本領であった郡内地方を制圧した、
北条氏は、笹子峠に北条左衛門太夫、御坂峠に北条左衛門佐に陣取らせた。
一方、国中を制圧した徳川勢は、旧八代町の小山城に鳥居彦右衛門を陣取らせ、
8月12日に黒駒で合戦となり、徳川氏が勝利した。
峠の南北に遺構は残り、峠を見下ろす特異な構造をしている。
特に御坂方面への防備のために長大な横堀がある(左2画像)。
峠を守備するのが目的だったせいか、本曲輪がどこであったのかはっきりしない。
また、河口湖方面から峠道を登ると、
いつの時代の物か分らないが、多くの石が転がり、
空堀らしい遺構や虎口のような遺構が残っている(左4、5画像)。
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