平安時代末期から鎌倉時代初期にかけて甲斐源氏の安田義定により築城された。
義定は平家との戦いに戦功を上げたが、かえって頼朝に危険視され、
建久4年(1193)に子の義資が、翌年には義定本人が謀殺された。
その後、寛正年間(1460〜1466)には跡部景家の居城となっていたが、
武田信昌との戦いに敗れ、ここで自刃した。
安田義定開基の普門寺から登山道がある(獣用の鉄柵を開けて中に入る)。
奥の院らしいエリアを抜け、少し行くと、堀切がある。
急斜面を登ると、三の郭と思しき、斜面上に小さな平坦地が続く。
ここには堀切がそのまま竪堀になったものなど痕跡が残る。
さらに上へ行くと平坦地があり、巨岩が目立つようになる。
この辺りの平坦地は植林のための後世によるものなのかは定かでない。
山頂部は東西2段の郭となっており西部が1段下っている(左画像)。
北東の尾根続きに1本堀切が残っている(右画像)。
尚、主郭から西の方にも郭が伸びているようだが、薮で確認していない。
安田義定の居館で、その後、二階堂氏が修築したとい伝わるが定かでない。
天文17年(1548)武田信玄が雁坂峠を守らせるために大村氏に築城させた。
天正10年(1582)武田氏滅亡後、徳川家康に反抗して敗れ、
家康家臣の内藤三左衛門が城代となった。
現在、巨峰畑となっているが、天守台(左端画像)や内堀(中央、右画像)は、
よく残っている。二の丸跡の八幡神社に案内板がある。
鎌倉時代、元応2年(1320)城主信田実正、実高親子が討ち死にしている。
その後、武田信満の三男、武田(江草)兵庫助信康(泰)が城主となり、
その後、信満4男信景の興した今井氏が城主となった。
甲斐守護の武田信虎と争うようになり、最終的に屈服させられ家臣となった。
その後、天正10年(1582)武田氏滅亡後に起きた、天正壬午の乱の際に、
北条氏が守っていたが、服部半蔵率いる徳川勢と旧武田家臣団に攻められ落城した。
(大系・現地案内板より)
バス停から塩川を渡り、登って行くと、駐車場があり、すぐ空堀がある。
小さな山の北側を迂回して、再び堀切がある(右端画像)。
ここから麓の根古屋神社へ道が通じているようである。
この堀切から先、本曲輪にかけて、腰曲輪が続き、石塁で固められている。
散乱した石塁もある。
新羅三郎義光によって築城されたという伝説がある。
表舞台に上がるのは、天正10年(1582)天正壬午の乱の時である。
新府に布陣した徳川勢に対し、北条氏直はここに布陣した。
結局、徳川勢が、大豆生田砦、獅子吼城での戦いで勝利した。
(大系・現地案内板より)
現在、遺構は、正覚寺裏の台地上にある曲輪と、
南西に川を隔てた台地上にある、大城と呼ばれる、若神子城址と標識のある曲輪と、
さらに川を隔てた南西にある台地上にある曲輪からなる。
今回は、中心にある、大城だけであるが、
遺構は公園化されて、かなり希薄になっている。
薬研堀の跡(左画像)がうっすらと再現されている。
それ以外に土塁跡のような跡(右画像)があるが、他も平坦な地でなく、はっきりしない。
新府城の支城といわれる。(大系より)
現在は上水施設が作られ、この山の山頂周辺には遺構は残っていないようである。
国道141号へ下った所にある、満福寺に穴山氏歴代の墓がある。
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