鎌倉時代初期、甲斐源氏加賀美遠光の4男於曽光経、その子遠経の屋敷跡と伝わる。
その後、於曽氏の屋敷で、信玄の頃は同族の板垣氏が於曽氏を継承した。
金山衆の役宅とも推定されている。
現在は於曽公園となっているが、
比較的土塁はよく残っており、特に南側の大手門側の土塁は、
3m近くあり容易には登れない(右画像)。
永正17年(1520)武田信虎が詰の城とした築城した。
その翌年大永元年に今川氏の家臣福島正成に攻められ、
武田晴信(信玄)がここで誕生したことは有名である。
その後、勝頼の時代に新府城に移る時に廃城となった。
また、武田氏滅亡後も使用された可能性があると推測されている。
麓の積翠寺の東側に根小屋と云う地名が残り、
その裏に城址はよく残っている。
竪堀があり(左端画像)、石塁が出て来たと思うと、主郭まで曲輪が続く。
その間には門の跡が石塁も含めて残っている(左2画像)。
主郭は土塁で囲まれた長方形の区域で平坦で広い(左3画像)。
さらに搦め手から出ると堀切があり(右端画像)、
堀切と共に曲輪が幾つか残る。
日本城郭大系には「要害城南遺構」と呼称している。
要害山城の尾根よりも南東にある別尾根上に派生し、
要害山城の支城だったのだろうか。
要害山城の搦め手から尾根を伝って下ると、
大きな空堀が2本あり(左端画像)、一の郭に入る。
ここが最高部で石塁で段のように築かれてある(左2画像)。
郭は尾根上にさらに下って続く(左3画像)。
南斜面には畝状竪堀らしい跡も残っていた(右端画像)。
麓まで下り切った所には石塁だらけの区域があり、
当時の遺構の1つなのか分らないが、石切り場のようである。
永正16年(1519)武田信虎が築城した。
天正9年(1581)に勝頼が新府城に移るまで武田氏の本城であった。
初めは単郭で、その後、曲輪が追加され、家康の統治下、
平岩親吉の頃に梅翁曲輪が築かれたと絵図から推測されている。
現在、主郭にな武田神社などの社殿があり、南面と西面は水堀で、
東、北側は空堀で囲まれている。
その空堀の深さは現在でも5m以上あり、
土塁からの比高は10m近くに達っする。
また最近、東側の発掘で、枡形虎口の下から三日月堀の跡が出て来た。
大永3年(1523)武田信虎により築城されたと推測されている。
また、それ以前にも城があったという説もある。
現在、湯村温泉の裏にある湯村山の山頂にある。
3つの郭に分れているが、巨石が転がっていたりと、やや荒れ気味で、
遺構はいまいちはっきりしない。
それでも、南側と西側に帯郭があり、一の郭には井戸の跡も残っている(中央画像)。
また土塁と空堀(左端画像)、石塁も残る。
公園の方からの道の途中に、のろし台が再現されている。
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