弘治3年(1557)11月10日大内義長の残党の草場越中守・小原加賀守・河越伊豆守らが、
義隆の遺子問田亀鶴を奉じてここに挙兵した。
亀鶴の叔父の内藤隆春が杉松千代と鎮圧し、亀鶴は捕らえられ殺された。(大系より)
標高10m程度の双耳峰で、大系に書かれてある北側には遺構らしい物はない。敢えて云えば、削平された跡だけである。
一方、南側は椎茸ほだ木を脇に登ると幅の広い堀切があり、すぐに主郭となる。
主郭内は登っていた方の北側が高く、段差を設けて幾つかに区切っている。
この主郭から南西側に下る道があり、ここを下ってみると、
主郭の南側に二重の堀切がある。藪っており、ややはっきりしなかったが、土橋のような物があるように見えた。
高嶺城と同時期に使われたと考えられる。(大内文化の遺産より)
兄弟山は公園化され登山道も整備されている。
北側の兄山は北側も南側も急斜面ではあるが、郭が数段残っている。
主郭である、山頂には祠がある。
一方、弟山は山頂部にいくつか郭が残っている。
歴史的な詳細は不明。
一番北側にある七ツ尾山から野田神社にかけて尾根上にある計6つの峰にまたがって遺構が残る。
神福寺から墓地を抜けて登っていき、大師堂の脇から登る。
東へ落ちる尾根に出て、北西に進むとすぐに堀切がある。
急斜面の尾根を登りきるとV郭である。西側にも尾根が延びており郭があったようだ。
北へ下ると堀切があり、登り返すと堀切があり、IV郭となる。
北へ下り、堀切を2つ越えるとIII郭となる。
III郭とII郭の間は平坦地で植林されている。
II郭は広く、郭内は藪が多いが、段になっている。
II郭から北へ下ると堀切があり、一旦堀切なのか峠なのかはっきりしない溝があり、
登り返し、しばらく遺構はない。
I郭の西側に出ると石仏と鳥居があり、急斜面を登るとI郭で、切岸が残っている。
I郭の北側に下ると堀切が1条ある。
II郭III郭の前後が防備が固く、こちらが本城で、I郭が詰めの城だったのだろうか。
文久3年(1863)6月28日から長府藩が築城を開始し、翌年2月1日竣工し、
藩主の毛利元周が移った。(現地説明板より)
石垣が良く残っている。
見た後に、四王司山城に登るつもりであったが、同日早朝に熊出没の報があり、断念せざるを得なかった。
永禄期の築城と推測される。大内氏の家臣和気氏の後、毛利家家臣坂新五左衛門の居城だった。
第1次大戦時に砲台が作られ、破壊された。(山口県中世城館遺跡総合調査報告書より)
山頂部は砲台跡で破壊されてはいるが、東側の尾根に堀切2本、
北側にも堀切2本、その西側に1本残るが、最後の1本は特定できなかった。
縄張り図が現況を省略しているために特定するのが難しかった。
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