長門・周防4



勝山城青山城四王司山城

勝山(且山)城

下関市【最寄り駅】JR山陽新幹線・山陽本線新下関駅

弘治3年(1557)大内義長が内藤隆世の導きで高嶺城から逃れてきた。 毛利氏は攻めあぐね、隆世は義長の助命を請い、切腹した。 義長は長府長福寺(功山寺)にて毛利氏に囲まれ切腹したという。 その後、毛利氏は定番をおき、改修をした。(現地説明板より)
東側に主郭からやや標高を下げた所に砦跡がある。四王司山城とのある峠道を意識した物だろうか。 主郭は山頂部にあり、南側に石塁が残っている。 また西側に郭が展開されているが、堀切や竪堀の跡が残る。 西側の郭は、東西に伸びる自然地形の傾斜の緩い場所で、再西端に堀切が残る。 南側に下った平畑山手前の場所に、鎧石原古戦場が残る。



青山城

下関市【最寄り駅】JR山陽新幹線・山陽本線新下関駅

築城年代は不明だが、16世紀後半に改修を受けている。 大永7年(1527)城主の高森正倫と、大内氏の加勢を受けた勝山城主の内藤興盛との戦いで落城したという。 16世紀後半に毛利氏により大規模に整備したという。 (山口県中世城館遺跡総合調査報告書・現地説明板より)
残念ながら、主郭は無線中継所が作られて、当時の姿を想像できない。 北側と西側には、それぞれ堀切と畝状竪堀が残り、南側斜面には石塁がところどころ残っている。


四王司山城

下関市【最寄り駅】JR山陽新幹線・山陽本線新下関駅

南北朝の頃、厚東氏と大内氏が対立し、 正平14年(1359)厚東南殿富永又三郎は大内弘世に討ち取られたという。 (現地説明板より)
勝山御殿から登って、中腹辺りに堀切と砦のような跡がある。 山頂部は寺院となっており、石塁や土塁や切岸らしい跡はあるが、城跡の遺構なのかははっきりしない。





前へ

このページの著作権は、作者に帰属します。 画像などの2次利用は御遠慮下さい。


戻る