大内弘世の頃に築城したと推測される。
天文20年(1551)義隆の時に陶晴賢に滅ぼされた後は、
陶氏を滅ぼし、毛利隆元が弘治3年(1557)に義隆の菩提寺として建立した。
現在は中心部分は龍福寺の境内となっている。
境内には土塁が一部残り、堀は住宅地となり残らない。
また、内門と推測される西門が再現され(左2画像)、
1500年の中頃に火災で機能を失ったという枯山水庭園跡も残る(最右画像)。
28代大内教弘が15世紀中頃構築した別館である。
文明12年(1480)6月から翌年まで飯尾宗祇も滞留し、
「池はうみこずゑは夏の深山かな」と詠んでいる。
それまで築地は石塁で囲んでいたのを、
文久3年(1863)毛利氏が萩城から移って来た時に、
香山通りに館を作る際に転用したという。
現在は、大内氏館のすぐ北側の八坂神社、築山神社の境内となっている。
北西に築地が残っている。
元治元年(1864)毛利敬親が、萩から山口に移った翌年築城された。
山口屋形と称された。その後、明治2年9月に、山口藩議事堂、
翌年の4月には藩庁と改称した。翌4年には県庁となり、
明治44年に改築となった。
現在は、現県庁に水堀と藩庁門が残っている。
大友宗麟の弟で大内家を継いだ、大内義長が弘治3年(1557)に築城した。
安芸から侵攻を深める毛利氏の前に内藤隆世とともに籠城するも、
多勢に無勢を理由に長門勝山城に逃げ、4月3日長府の長福寺で自刃した。
毛利氏は家臣の市川経好を城番とした。永禄12年(1569)毛利氏が筑前立花城を攻めると、
大友宗麟は10月に寄食していた大内輝弘を送り込んだ。
高嶺城を囲むも、攻めあぐね、毛利軍が立花城から撤退し、山口に向かい、
潰走、防府の茶臼山で自刃した。
城番は、市川経好、柳沢元政、佐世元嘉と続き、元和元年(1615)の一国一城令により廃城になった。
(大系より)
標高338mの鴻峰山の麓から山頂付近にかけて遺構が残る。
堀切や空堀などの遺構はなく、削平地と最高所に石塁で築かれた本郭があり(上段画像)、東側には井戸も残る。
一方、大手道と思しき、麓の山口大神宮から登って行くと、
しばらく九十九折の道を登り、尾根に出たところに、
郭が数段残っている(下段画像)。石塁も残っているようであるが、
草木が繁茂しており、確認できなかった。
大内弘世の時に、山口氏という豪族がいて、これを滅ぼしたと「中国治乱記」にあるが、信憑性はないという。
遺構の規模から、弘世よりも後世にあると推測される。(大系より)
「城郭放浪記」さんを
参考に一の坂ダムの西側の作業林道から登る。
幾つか分岐があり、2番目を誤って入ってしまい、途中、藪漕ぎして直登したら、
正解の林道に出て、目標の2重堀切(最左画像)に出た。もう一度行けと云われてもかなり正解は難しいルートである。
堀切から尾根に入り、急登を登り切ると三角点のある主郭に出る。
北側に切岸が数段続き(左2画像)、
北東側に虎口らしい跡も残る(左3画像)。
山口市内方面の南側にも石塁が見られる(左4画像)。
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